欧米バイカーギャングの別名は「ワンパーセンターズ」(1%ers)です(*1)。「ワンパーセンターズ」の名称は、アメリカンモーターサイクル協会(AMA:American Motorcycle Association)会長の発言に由来しています(*1)。
アメリカンモーターサイクル協会の前身は「アメリカンモーターサイクリスト協会」(American Motorcyclists’ Association)でした(*1)。モーターサイクリスト(Motorcyclist)とは「モーターサイクル(オートバイ、自動二輪車)運転者」のことです。アメリカンモーターサイクリスト協会は1924年「アメリカンモーターサイクル協会」に改称しました(*1)。
アメリカンモーターサイクル協会の活動目的は、レース活動の運営及び監督、自動二輪車の普及活動などでした(*2)。
自動二輪車メーカーのハーレー・ダビッドソン社は1928年、アメリカンモーターサイクル協会を実効支配することに至りました(*2)。ハーレー・ダビッドソン社は1903年ウィスコンシン州ミルウォーキーで誕生しました(*3)。ハーレー・ダビッドソン社の創設者は、ウィリアム・ハーレー、アーサー&ウォルター・ダビッドソン兄弟の3人でした(*3)。
1920年代後半、自動二輪車の販売競争において、ハーレー・ダビッドソン社とライバル関係にあったのがインディアン社でした(*4)。インディアン社は1901年、マサチューセッツ州スプリングフィールドで設立されました(*5)。オスカー・ヘッドストームとジョージ・ヘンディーがインディアン社の創設者でした(*5)。
1947年7月4日カリフォルニア州フォリスターでアメリカンモーターサイクル協会下のイベント(イベントの通称名「ジプシーツアー」)がありました(*1)。「(アメリカンモーターサイクル協会)非加盟のバイカークラブ」もこのジプシーツアーに参加していました(*1) (*6)。非加盟のバイカークラブは「アウトロー・モーターサイクル・クラブ」(outlaw motorcycle club)と呼ばれていました(*1)。
アウトロー・モーターサイクル・クラブは、反抗的な10代の少年達、帰還兵らによって構成されていました(*7)。アウトロー・モーターサイクル・クラブの構成員の多くは、酒好きで、粗暴的でした(*7)。アメリカンモーターサイクル協会は、アウトロー・モーターサイクル・クラブには否定的でした(*7)。
戦前のジプシーツアーはカリフォルアニア州内のみで開催されていましたが、戦後はカリフォルニア州外でも開催されるようになりました(*6)。
1947年はフォリスターがジプシーツアー開催地になり、サリナス・ランブラーズバイククラブとフォリスター記念公園協会がジプシーツアーを共同で主催することになりました(*6)。
主催側としては、非加盟バイカークラブ(アウトロー・モーターサイクル・クラブ)をジプシーツアーに参加させない方針がありました(*6)。しかし非加盟バイカークラブのメンバーらは早めにフォリスターに着いていました(*6)。
そしてイベント当日(7月4日)、非加盟バイカークラブ「ピスト・オフ・バスターズ・フロム・ベルドゥー」(Pissed off Bastards from Berdoo)、「ブーズファイターズ」(Boozefighters)のメンバーらがフォリスターで暴動を引き起こしました(*1) (*6)。その日フォリスターに集まった「非加盟バイカークラブの総構成員数」は500人程度でした(*1) (*6)。
この7月4日の暴動により、49人が酩酊による騒乱罪等で逮捕され、怪我人は40人程度出ました(*6)。フォリスターにとって大きな被害はほとんどなかったようです(*6)。実際、暴動直後、大きなニュースとして扱われることはなかったです(*6)。
しかし暴動から3週間後の『ライフ誌』(アメリカ合衆国の代表的な写真ニュース雑誌)にて、7月4日の暴動が大きく取りあげられました(*6)。また記事では、その日フォリスターに集まった非加盟バイカークラブの総構成員数が「4,000人」と記載されていました(*6)。間違った情報が記事に記載されていたのです。その後、他のメディアもこの暴動を報道していったことで、フォリスターの暴動が世間に認知されていったのです(*6)。
フォリスターでの暴動を受け、アメリカンモーターサイクル協会は非加盟バイカークラブを非難しました(*1)。またアメリカンモーターサイクル協会会長は、アメリカ合衆国のバイカーは「99%の法を順守する市民」と「1%のアウトロー」に分けられると、述べました(*1)。つまりアメリカンモーターサイクル協会会長は、加盟バイカークラブを「99%の法を順守する市民」、非加盟バイカークラブを「1%のアウトロー」と定義したのです。
一方、非加盟バイカークラブつまりアウトロー・モーターサイクル・クラブは「1%」ワッペンを作るなど、「1%」という言葉を積極的にとり入れていきました(*8)。アウトロー・モーターサイクル・クラブは「1%のアウトロー」をアイデンティティとしていったのです。以降、アウトロー・モーターサイクル・クラブのメンバーは、1%ワッペンを服に付けました(*9)。
そしてアウトロー・モーターサイクル・クラブは「ワンパーセンターズ」(1%ers)と認知されるようになりました(*1)。
警察組織はアウトロー・モーターサイクル・クラブ(ワンパーセンターズ)を「アウトロー・モーターサイクル・ギャング」(outlaw motorcycle gangs)と呼んで、「犯罪組織」として位置づけました(*10)。アウトロー・モーターサイクル・ギャングの略称が「バイカーギャング」になります。
<引用・参考文献>
*1 『The Brotherhoods: Inside the Outlaw Motorcycle Clubs』(Arthur Veno,2009,Allen & Unwin),p23-24
*2 『アウトロー・バイカー伝説』(ビル・オズガービー、2008年、スタジオタッククリエイティブ),p19
*3 『アウトロー・バイカー伝説』,p13
*4 『アウトロー・バイカー伝説』,p18
*5 『アウトロー・バイカー伝説』,p14-15
*6 『アウトロー・バイカー伝説』,p28-30
*7 『アウトロー・バイカー伝説』,p26-27
*8 『アウトロー・バイカー伝説』,p31
*9 『The Fat Mexican: The Bloody Rise of the Bandidos Motorcycle Club』(Alex Caine,2010,Vintage Canada),p172
*10 『Biker Gangs and Transnational Organized Crime Second Edition』(Thomas Barker,2014,Routledge),p35-36
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