1次団体・稲川会における親子盃と兄舎弟盃

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 先月(2025年4月)21日神奈川県川崎市の病院内で「稲川会」の清田次郎総裁(84歳)が死去しました(*1)。親族や稲川会構成員らによる密葬が4月下旬に行われ、翌月(2025年5月)15日には横浜市内の稲川会施設にて本葬儀が行われました(*2)。本葬儀には全国の1次団体トップらが参列しました(*2)。

 稲川会は2024年時点で約1,600人の構成員を擁し、1都1道15県を活動範囲としていました(*3)。2024年において1,000人以上の構成員を擁するヤクザ組織は「山口組」、「住吉会」、稲川会の3団体のみでした(*3)。山口組の構成員数は約3,300人、住吉会の構成員数は約2,100人でした(*3)。構成員数で比較すると稲川会は「日本第3位の勢力」でした。

 稲川会の創設者は稲川聖城でした(*4)。1949年春、博徒組織「綱島一家」(参考文献では「鶴岡一家」と表記。鶴岡一家は綱島一家の別名)幹部の稲川聖城(当時=裕芳)が(*5)、静岡県熱海市の老舗博徒組織「山崎屋一家」の総長(一家内の最高位)に就きました(*4)。当時、綱島一家の総長は鶴岡政次郎でした(*5)。山崎屋一家は熱海市、神奈川県真鶴町を縄張りとしていました(*4)。

 稲川聖城は1914年横浜市で生まれました(*5)。稲川聖城の山崎屋一家総長就任は、前総長の石井秀太郎の引退に伴うものでした(*4)。稲川聖城が山崎屋一家に移籍することで、解決が図られたのでした。一方、稲川聖城は移籍したものの、1949年以降も綱島一家の影響下にあった可能性もあります。綱島一家は横浜市を拠点にして活動していました(*5)。

 元々稲川聖城は博徒組織「堀井一家」の構成員でしたが、1948年2月綱島一家に移籍していました(*6)。堀井一家は神奈川県の片瀬、鎌倉、大船、藤沢などを縄張りとしていました(*6)。

 稲川聖城は、山崎屋一家総長を継承した1949年、熱海市咲見町に「稲川興業」という看板を掲げました(*4)。「稲川興業」という看板を掲げた1949年が、稲川会では「誕生の年」として認識されてきました(*4)。

 その後、稲川聖城の率いる組織(当時は「稲川組」と呼ばれていました)は横浜市に進出し、確固たる地盤を築きました(*7)。稲川組進出前の横浜市では、「京浜兄弟会」(親分衆七人が兄弟盃を交わして結成した組織)、愚連隊が勢力を持っていました(*7)。当時の横浜市の愚連隊としては「出口辰夫グループ」「井上喜人グループ」「林喜一郎グループ」「吉水金吾グループ」の4グループが有名でした(*7)。この愚連隊4グループは稲川組に加入しました(*7)。また旧綱島一家の一部勢も稲川聖城の組織(稲川組の時代もしくは鶴政会の時代)に加入しました(*5)。

 また稲川組は小田原市や川崎市に進出し、神奈川県内での版図を拡張させていきました(*7)。1953年稲川組は鈴木仙太郎(「生井一家」系)を最高顧問に迎え入れました(*5)。1959年2月、稲川組は東京に事務所を開設しました(*7)。

 先述の山崎屋一家はその後も熱海市を拠点に活動するものの、「稲川組の2次団体」として活動していきました(*8)。山崎屋一家は老舗博徒組織であり、稲川聖城にとって「山崎屋一家」の名で版図を拡大するには遠慮があったのかもしれません。

 1959年11月稲川組は「鶴政会」に改称しました(*7)。先述の井上喜人が鶴政会の理事長を務めました(*5)。1960年10月鶴岡政次郎が死去しました(*5)。

 1962年鶴政会は岐阜県の博徒組織「池田一家」の一部勢力を取り込み、「鶴政会岐阜支部」を設立、岐阜県への進出を果たしました(*5)。

 1963年10月鶴政会は「錦政会」に改称しました(*7)。錦政会は表向き「政治結社」という立場をとりました(*7)。しかし1965年3月錦政会は解散しました(*9)。背景には、前年(1964年)2月以降、警察組織がヤクザ組織に対して取り締まりを強化していったことありました(*9)

 その後も旧錦政会勢力は「稲川組」として活動し続け、1972年3月「稲川会」に改称しました(*9)。稲川会の初代会長には稲川聖城が就きました(*9)。同年(1972年)10月、稲川会と山口組の間で二組の「五分兄弟盃」が交わされ、2団体は親戚関係となりました(*9)。二組のうち一つは「稲川会理事長の石井隆匡(横須賀一家総長)」と「山口組若頭の山本健一(山健組組長)」の組み合わせで、もう一つは「稲川会専務理事の趙春樹(箱屋一家総長)」と「山口組若頭補佐の益田佳於(益田組組長)」の組み合わせでした(*9)。

 稲川聖城初代会長体制(1972年3月~1986年5月)、稲川聖城は稲川会内において舎弟を置かず、2次団体トップらを全て「子分」としました(*10)。

 1986年5月石井隆匡(1924年生まれ)(*11)が「稲川会の二代目会長」に就任しました(*10)。石井隆匡は二代目会長に就く前、稲川会の理事長(ナンバー2職)を務めていました(*10)。また二代目体制発足時に前会長の稲川聖城は「総裁」に就任しました(*10)。二代目体制発足時の理事長には長谷川春治(九代目「碑文谷一家」総長)が就きました(*10)。

 石井隆匡は1946年、横須賀市の博徒組織「石塚一家」の石塚儀八郎総長の子分になりました(*11)。1948年には石塚一家の代貸に昇格しました(*11)。1955年石井隆匡(石塚一家・代貸)は、稲川組の井上喜人と兄弟分の盃を交わしました(*11)。1961年石塚儀八郎総長が引退、石井隆匡が石塚一家総長に就きました(*11)。また石井隆匡の総長就任と同時に、石塚一家は鶴政会(1959~1963年)に加入しました(*11)。石井隆匡は1963年頃、横須賀一家五代目総長に就きました(*11)。

 1972年石井隆匡は稲川会の理事長に就きました(*11)。先述したように1972年3月に稲川組は「稲川会」に改称しており、石井隆匡が「稲川会の初代理事長」だったと考えられます。1978年11月警視庁は石井隆匡を逮捕し、1980年4月7日東京地裁は石井隆匡に対し懲役5年の判決を言い渡しました(*10)。石井隆匡は服役生活に入ることになり、理事長を退任しました(*10)。1980年5月趙春樹(箱屋一家総長)が稲川会の理事長に就任しました(*10)。

 石井隆匡二代目会長体制(1986年5月~1990年10月)(*11)、「石井隆匡」と「2次団体トップら」の間で、親子盃や兄舎弟盃は交わされませんでした(*10)。

 石井隆匡二代目会長体制下、2次団体トップらにとって盃事上の「親分」とは稲川聖城総裁だったのです。親子盃や兄舎弟盃が交わされなかったことで、稲川聖城は自身の影響力を稲川会内に残すことができたはずです。石井隆匡二代目会長体制では「権力の分散」が制度化されていたのです。1991年9月石井隆匡は病気で死去しました(*11)。

 1990年10月稲川裕紘(1940年生まれ)(*8)が「稲川会の三代目会長」に就任しました(*10)。稲川裕紘は稲川聖城の実子でした(*10)。稲川裕紘は三代目会長に就く前、稲川会の理事長を務めていました(*10)。稲川裕紘は2次団体では「稲川一家」の初代総長をしていました(*8)。1974年稲川裕紘は、先述の山崎屋一家総長に就任しました(*8)。1980年山崎屋一家は「山田一家」(横浜市)の縄張りを引き継ぐにあたって、「稲川一家」に改称しました(*8)。

 二代目体制と異なり、稲川裕紘三代目会長体制(1990年10月~2005年5月)(*12)では「稲川裕紘」と「2団体トップ及び幹部ら」の間で、親子盃及び兄舎弟盃が交わされました(*10) (*13)。

 稲川裕紘三代目会長体制下、2次団体トップらにとって盃事上の「親分」及び「兄」とは稲川裕紘でした。

 ちなみに稲川裕紘三代目会長は1996年、五代目山口組の渡辺芳則組長と「五分の兄弟盃」を交わしました(*8)。この盃事は両団体の親戚関係の「更新」を意味しました。

 稲川裕紘三代目会長は2005年3月、都内の病院で死去しました(*12)。その後稲川会は1年間、喪に服しました(*14)。

 2006年7月角田吉男(1932年生まれ)が「稲川会の四代目会長」に就任しました(*14)。角田吉男は四代目会長に就く前、喪に服していた期間(2005年3月以降)は稲川会の特別顧問でしたが、稲川裕紘死去以前は稲川会の理事長を務めていました(*14)。

 次期トップ選びにあたって「角田吉男特別顧派」と「稲川英希本部長派」が対立し、稲川会は二分していました(*14)。稲川英希は稲川裕紘の実子でした(*14)。2006年7月横浜市内にて「角田吉男特別顧問派」が角田吉男の「四代目継承式」を催した一方、同日熱海市の稲川会本部にて「稲川英希本部長派」が稲川英希の「五代目継承式」を催しました(*14)。稲川聖城総裁は横浜市の「四代目継承式」に出席しました(*14)。翌日角田吉男と稲川英希が会談、結果稲川英希は身を引くことになり、角田吉男四代目会長体制が開始しました(*14)。

 角田吉男は1992年10月、稲川会の理事長 に選ばれました(*10)。2002年10月時点でも角田吉男は稲川会の理事長を務めていました(*13)。角田吉男は稲川裕紘三代目会長体制を長らくナンバー2として支えていたと推測されます。

 角田吉男は2次団体では「京葉七熊一家」(現在の「七熊一家」)の総長をしていました(*14)。京葉七熊一家は千葉県船橋市を拠点にして活動していました(*14)。角田吉男は元々横須賀一家の出身で、横須賀一家から京葉七熊一家に移籍し総長に就任したのです(*14)。稲川裕紘も若い頃横須賀一家で修行をしており、角田吉男とはその当時からの付き合いでした(*8)。

 先述したように稲川裕紘は1940年生まれで、角田吉男は1932年生まれでした。角田吉男が8歳ほど年長でした。

 角田吉男四代目会長体制(2006年7月~2010年2月)(*14)でも、「角田吉男」と「2団体トップ及び幹部ら」の間で、親子盃及び兄舎弟盃が交わされた模様です(*15)。2007年末、稲川聖城総裁が死去しました(*15)。2010年2月には角田吉男四代目会長が病気により死去しました(*14)。

 2010年2月清田次郎(1940年生まれ)(*1)が「稲川会の五代目会長」に就任しました(*16)。清田次郎は2006年4月稲川会の理事長に就任しました(*1)。角田吉男四代目会長体制下(2006年7月~2010年2月)では清田次郎が一貫して稲川会の理事長を務めました(*16)。

 清田次郎は2次団体では「山川一家」の二代目総長をしていました(*1)。山川一家は川崎市を拠点にして活動してきました(*17)。

 先述した2006年稲川会次期会長を巡る争いでは山川一家は「杉浦一家」、横須賀一家などと「角田吉男特別顧問派」を形成していました(*18)。

 ちなみに稲川裕紘三代目会長体制(1990年10月~2005年5月)の2002年10月時点で清田次郎は稲川会内において「理事長補佐」を務めていました(*13)。当時(2002年10月)、稲川会の理事長補佐は4人いました(*13)。残りの理事長補佐は杉浦昌宏(杉浦一家総長)、西山輝(碑文谷一家総長)、金澤伸幸(横須賀一家総長)の3人でした(*13)。

 清田次郎五代目会長体制(2010年2月~2019年4月)(*15)では、三代目及び四代目体制と異なり、「清田次郎」と「2団体トップ及び幹部ら」の間で、親子盃のみ交わされました(*15)。つまり清田次郎五代目会長体制では、2次団体トップらにとって盃事上の「親分」は清田次郎になりました。また清田次郎五代目会長体制の稲川会において「清田次郎の舎弟」はいなかったです

 2019年4月内堀和也(1952年生まれ) (*19)が「稲川会の六代目会長」に就任しました(*15)。清田次郎五代目会長体制下(2010年2月~2019年4月)で内堀和也は一貫して稲川会の理事長を務めました(*15) (*20)。内堀和也は2次団体では山川一家の三代目総長をしていました(*1)。また六代目体制開始とともに、前会長の清田次郎は総裁に就きました(*15)。現在までに稲川会では稲川聖城と清田次郎の2人が総裁職に就きました。

 内堀和也六代目会長体制(2019年4月~現在)では、五代目体制同様、「内堀和也」と「2団体トップ及び幹部ら」の間で、親子盃のみ交わされました(*15)。2019年4月以降、2次団体トップらにとって盃事上の「親分」は内堀和也になりました。

 2006年10月24日内堀和也(当時は稲川会理事長補佐兼山川一家若頭)は、山口組2次団体「弘道会」若頭の竹内照明(現在の山口組若頭兼弘道会会長)と「五分の兄弟盃」を交わしました(*21)。

 五代目及び六代目会長を輩出した山川一家の創設者は山川修身でした(*17)。山川修身は東京で生まれでした(*17)。後に地元で不良となり、少年院に入りました(*17)。山川修身は出所後、実兄とともに北海道の炭鉱や建設現場で働いていました(*17)。

 山川修身は1949年頃から川崎市で愚連隊活動を開始しました(*17)。山川修身の愚連隊は80人近い舎弟を擁し、川崎市で勢力を張りました(*22)。稲川組の井上喜人からの誘いもあり、山川修身の愚連隊は稲川会(当時=稲川組もしくは鶴政会)に加入しました(*17)。先述したように、井上喜人は鶴政会時代(1959~1963年)に理事長を務めました。山川修身の愚連隊は稲川会加入後、「山川一家」と名乗っていったと考えられます。山川一家の前身は愚連隊だったのです。

 清田次郎(1940年生まれ)も若かりし頃、川崎市で愚連隊を率いていました(*1)。資料によれば清田次郎は「80人ほどの荒くれ者を率いる愚連隊の頭領」でした(*1)。先述したように山川修身も愚連隊時代は80人近い舎弟を擁していました。しかし山川修身が川崎市で愚連隊活動をし始めたのは1949年であり、その時清田次郎は9歳頃でした。年齢を踏まえると、後年に清田次郎は川崎市で愚連隊活動を始めたと推測されます。清田次郎の愚連隊は川崎市においては「後発組」だったと考えられます。結局、清田次郎の愚連隊は「山川修身の愚連隊」もしくは「山川一家」の傘下に入りました(*1)。

 山川修身は「鶴政会川崎支部長」を務めました(*22)。先述したように稲川組は1959年11月「鶴政会」に改称、また鶴政会は1963年10月「錦政会」に改称しました。ゆえに山川修身の愚連隊は1963年までに稲川会(当時=稲川組もしくは鶴政会)に加入したと考えられます。

 稲川裕紘三代目会長体制開始時(1990年10月)、山川修身は稲川会の理事長に就きました (*22)。山川修身は1992年理事長を退任し、稲川会の最高顧問に就任しました(*22) (*23)。先述したように角田吉男は1992年10月に稲川会の理事長 に選ばれました。角田吉男の前任者は山川修身だったと考えられます。

 山川修身の最高顧問就任に伴い、清田次郎が1992年山川一家の二代目総長に就任しました(*23)。その前まで清田次郎は山川一家において若頭を務めていました(*1)。1997年7月山川修身は病気により死去しました(*22)。山川修身死去時の年齢は78歳でした(*22)。

 川崎市は元々、博徒組織「小金井一家」の縄張りでした(*24)。小金井一家は川崎市以外にも東京の中央線沿線一帯、新宿も縄張りとしていました(*24)。小金井一家は違法賭博を主な資金獲得源とする一方、他団体に縄張りを貸し出して「地代」を得ていました(*24)。ヤクザ組織業界において、貸し出しの縄張りは「貸し縄張(ジマ)」、逆に借りている縄張りは「借り縄張(ジマ)」と呼ばれました(*25)。太平洋戦争終了(1945年)以降の関東では、貸しジマ(借りジマ)がありました(*25)。愚連隊を前身とするヤクザ組織は、博徒組織から縄張りを借りて活動する場合がありました(*25)。博徒組織における縄張りとは「賭場の開帳権を行使できる地理的範囲」のことでした(*26)。

 2001年3月山川一家は小金井一家と抗争に至りました(*27)。「小金井一家の住吉会加入」という話が持ち上がったことが抗争のきっかけとなりました(*27)。当時の小金井一家は「二率会」(1次団体)に属していました(*24)。小金井一家は「二率会の2次団体」だったのです。

 「小金井一家の住吉会加入」という話は、小金井一家が二率会から脱退、住吉会に移籍するということを意味していました。

 その後、稲川会と小金井一家の間で和解が成立し、抗争は終了しました(*27)。小金井一家は一旦、住吉会に移籍しました(*27)。そして小金井一家の川崎勢力が住吉会から稲川会に移籍することで、解決が図られました(*27)。結果、小金井一家は分裂しました。小金井一家の脱退後、2001年二率会は解散しました(*24)。

 以上の状況から、2001年まで山川一家は小金井一家から縄張りを借りて、川崎市で活動していたと考えられます。つまり山川一家が「店子」で、小金井一家が「大家」という関係が形成されていたと考えられます。

 もし小金井一家が住吉会に加入すれば、住吉会側が「大家」の立場として山川一家に不利なことを要求してくることが山川一家内で懸念されたのだと考えられます。結果、緊張感が高まり、抗争が勃発したと推測されます。

 2001年3月の抗争によって稲川会は川崎市の縄張りを手中に収めました。山川一家にとっても大きな成果を得たのだと考えられます。しかしその年の8月15日「四ツ木斎場」(東京都葛飾区)にて稲川会2次団体「大前田一家」構成員らが、住吉会3次団体「向後睦会」トップの熊川邦男会長、同じく3次団体「滝野川」トップの遠藤浩司総長、他1名に発砲しました(*27)。熊川邦男会長と遠藤浩司総長は銃撃に死亡しました(*27)。実行犯は住吉会側に取り押さえられましたが、後に警察に引き渡されました(*27)。当時の住吉会では多くの2次団体が「住吉一家」の傘下に入るという形をとっていたので、名目上「3次団体」となっていました。それぞれ正式名称は「住吉会住吉一家向後睦会」「住吉会住吉一家滝野川七代目」となっていました(*27)。向後睦会と大前田一家の間には債権トラブルがあったとのことですが、射殺という結論に至るには飛躍し過ぎていました(*27)。状況的に稲川会は不利な状況に追い込まれたといえます。8月20日稲川会は大前田一家の小田建夫七代目総長を絶縁にしました(*27)。当時小田建夫は稲川会においては渉外委員長を務めていました(*27)。また稲川会総本部本部長の岸本卓也(「岸本一家」総長)が自ら引退を申し出て、除籍となりました(*27)。

 もし「小金井一家の住吉会加入」という話が四ツ木斎場事件後に出ていたら、山川一家側は強硬には出ることができず、小金井一家の川崎勢も住吉会に加入していたかもしれません。

 この2001年8月は稲川裕紘三代目会長体制(1990年10月~2005年5月)の時でした。2001年8月以降、三代目会長体制は組織運営に苦労したのではないかと思われます。

 内堀和也は2008年山川一家の三代目総長に就任しました(*1)。内堀和也の稲川会六代目会長就任に伴い、2019年小林稔(1952年生まれ)が山川一家四代目総長に就任しました(*28)。小林稔は元々別のヤクザ組織に所属していましたが、後に養子縁組により「内堀組」(山川一家の2次団体)に移籍しました(*28)。内堀組のトップは内堀和也でした(*28)。小林稔は内堀組で若頭を務め、2008年内堀組二代目組長に就任しました(*28)。先述したように内堀和也も1952年生まれで、二人は同い年です。

 2023年4月9日稲川会の定例会において新役員人事が発表されました(*29)。その人事では小沼武夫理事長補佐(六代目箱屋一家総長)が懲罰委員長に昇格するなどしました(*29)。同年(2023年)4月17日時点の稲川会最高幹部は、理事長・貞方留義(三代目「埋地一家」総長)(*30)、総本部本部長・池田龍治(十二代目小金井一家総長)(*30)、組織委員長・小林稔(四代目山川一家総長)、渉外委員長・熊谷正敏(十一代目碑文谷一家総長)(*30)、運営委員長・近藤新一(七代目七熊一家総長)(*31)、諮問委員長・中島順成(二代目「中島一家」総長) (*32)、懲罰委員長・小沼武夫(六代目箱屋一家総長)で構成されていました(*29)。また筆頭理事長補佐は沖勝彦(二代目「山瀬一家」総長)(*30)でした(*29)。

 渉外委員長・熊谷正敏は1961年生まれ(*33)、先述したように組織委員長・小林稔は1952年生まれ、諮問委員長・中島順成は1947年生まれ(*32)、筆頭理事長補佐・沖勝彦は1962年生まれでした(*32)。

 運営委員長・近藤新一は2020年11月、七代目七熊一家総長に就任していました(*31)。懲罰委員長・小沼武夫は2022年3月、六代目箱屋一家総長に就任していました(*34)。箱屋一家総長就任前の小沼武夫は「小沼組」組長でした(*34)。

 2016年1月稲川会は箱屋一家総長の中村豪、「紘城一家」総長の戸上光雄を破門しました(*34)。箱屋一家と紘城一家は稲川会を脱退し、独立組織として活動していきました(*34)。

 2018年9月紘城一家の一部勢力が稲川会に復帰しました(*35)。また2022年9月稲川会は、戸上光雄がけじめをつけたということで、戸上光雄の処分を「除籍」に切り替えました(*29)

 2022年1月箱屋一家総長の中村豪が病気により死去しました(*34)。稲川会は「新生・箱屋一家」を設立すべく、小沼武夫(小沼組)を箱屋一家の新総長に据えたのでした(*34)。中村豪は「六代目箱屋一家総長」でしたが、破門処分ゆえにその代目は抹消されました(*34)。ゆえに小沼武夫が新たに六代目箱屋一家総長に就任したのです。

 また稲川会は上納金が高いことで有名でした(*36)。ちなみに司忍組長体制(2005年~現在)の山口組では直参(2次団体トップ)の上納金(会費)は月額85万円でした(*37)。加えて直参は月額30万円の「積立金」も徴収されました(*37)。山口組直参の実質上納金は月額「115万円」だったのです。後に山口組は2015年11月5日の定例会にて、上納金額の引き下げ(月額85万円からの引き下げ)を発表しました(*38)。

 清田次郎の本名は辛炳圭でした(*3)。清田次郎は本名から在日韓国・朝鮮人だと考えられます。2024年時点において「指定暴力団」に指定されたヤクザ組織は25団体で、そのうち在日韓国・朝鮮人と考えられる代表者は6人いました(*3)。代表者における在日韓国・朝鮮人の割合(6/25)から一定数の在日韓国・朝鮮人がヤクザ組織業界で活動していることが示唆されます。

 在日韓国・朝鮮人のヤクザ組織構成員には「帰化を望む者」が多かったです(*39)。しかし国籍法第5条に「素行が善良であること」という条項があるため、ヤクザ組織構成員は帰化申請ができなかったといわれています(*39)。

 山川一家の拠点である川崎市の「おおひん地区」と呼ばれたエリアでは朝鮮人コミュニティが形成されました(*40)。

 稲川会では昔から在日外国人が登用されていました。先述の趙春樹(箱屋一家総長)は在日中国人で、太平洋戦争終了(1945年)以降に東京都の向島に愚連隊を率いていました(*41)。その後、趙春樹は箱屋一家に入りました(*41)。当時の箱屋一家は「日本国粋会」に加入していました(*41)。趙春樹が箱屋一家総長を継承した時に、箱屋一家は日本国粋会を脱退、稲川会(当時は稲川組もしくは鶴政会もしくは錦政会)に加入しました(*41)。

 先述したように1980年5月趙春樹は石井隆匡の後を受け継ぎ、稲川会の理事長に就任しました。趙春樹は1985年まで稲川会の理事長を務めました(*41)。おそらく5年の懲役刑を終えて出所した石井隆匡が理事長に同年(1985年)再就任したのでしょう。先述したように翌1986年5月石井隆匡は稲川会二代目会長に就きました。その後趙春樹は稲川会内では最高顧問を務めました(*41)。

 戦後の朝鮮人系アウトロー組織としては関東の「東声会」、関西の「柳川組」(山口組下部団体)や「明友会」(大阪の愚連隊)などが有名でした(*42) (*43)。

  東声会は1957年、町井久之(本名:鄭建永)により結成されました(*44)。町井久之は1923年東京で生まれた在日二世の朝鮮人でした(*44)。町井久之は戦後、銀座に「中央商会」(事件屋)や「中央興行社」(興行会社)を興しました(*44)。一方で町井久之は朝鮮人系愚連隊を影響下に置いていきました(*44) (*45)。町井久之の企業群及び愚連隊群は「町井一家」などと総称されていました(*45)。旧町井一家勢力が東声会の中核を担いました(*45)。町井久之は町井一家勢力の統括団体として「東声会」を結成したと考えられます。

 東声会は元々縄張りを持っていませんでした(*44)。結成1年後の1958年東声会は構成員数500人を超える規模までに急拡大しました(*44)。その後も東声会は東京都では銀座を本拠地として新宿、品川、五反田、蒲田、浅草、深川、神奈川県内では横浜市、藤沢市、平塚市に進出しました(*42) (*46)。また埼玉県の川口市、群馬県の高崎市にも進出しました(*42)。

 この1958年には「日本国粋会」と「港会」も発足しました(*47) (*48)。日本国粋会には主に老舗博徒組織が集いました(*47)。日本国粋会は連合型の組織でした(*47)。また加入した博徒組織の中には繁華街に縄張りを持ち、広大な縄張りを有する組織もありました(*47)。一方、港会には28団体が集い、組織の種類も博徒組織、テキヤ組織、愚連隊と多様でした(*48)。

 日本国粋会結成時には博徒組織「幸平一家」も加入していました(*47)。一方、同年(1958年)に幸平一家は「滝野川一家」「土支田一家」「二本木小川一家」の3博徒組織と共に「友愛会」という1次団体を興していました(*48)。そして後にこの4博徒組織は港会に加入しました(*48)。おそらく幸平一家は1958年に「日本国粋会」と「友愛会」の両方に属していたと考えられます。後に幸平一家は日本国粋会を脱退、友愛会を解消して、港会に加入したと考えられます。

 テキヤ業界では極東一門(関口一門+桜井一門+飴徳一門)の勢力が中心になり1961年「極東愛桜連合会」を立ち上げました(*49)。極東愛桜連合会には極東一門ではない「研家一家」「橋本組」も加入していました(*49)。

 極東一門は上記のように関口一門、桜井一門、飴徳一門の「3つの一門」から構成されました(*50)。飴徳一門の祖は竹内徳次郎でした(*50)。竹内徳次郎は明治時代(1868~1912年)中期、横浜で「飴徳一家」を立ち上げました(*50)。飴徳一家の筆頭子分だったのが桜井庄之助(本名:立木左馬之助)でした(*50)。桜井一門の祖が桜井庄之助でした(*50)。竹内徳次郎は「極東一門の祖」としても位置付けられていました。

 この頃の関東ではアウトロー組織(博徒組織、テキヤ組織、愚連隊)の集約化が加速していたことが分かります。

 東声会の話に戻します。町井久之(東声会初代会長)は1963年、三代目山口組の田岡一雄組長と「兄舎弟盃」(兄が田岡一雄、舎弟が町井久之)を交わしました(*44)。町井久之と田岡一雄はともにプロレス興行界に影響力を持っていました(*44)。1963年以降、東声会と山口組は親戚関係となったのです。先述したように稲川会と山口組が親戚関係になったのは1972年でした。

<引用・参考文献>

*1 『週刊実話』2025年5月22日号, p150-152

*2 『週刊実話』2025年6月5日号, p150-152

*3 警察庁「令和6年における 組織犯罪の情勢」(2025年),p40

https://www.npa.go.jp/publications/statistics/kikakubunseki/R6jyousei.pdf

*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p32

*5『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p59-65

*6『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002年、ちくま文庫), p140

*7 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』, p33-34

*8 『実話時代』2019年5月号, p17

*9 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』, p35-36

*10 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』, p38-40

*11 『新版・現代ヤクザのウラ知識』(溝口敦、2006年、講談社+α文庫), p268,270-271

*12 『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫), p302

*13『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社),p61-62

*14 『裏社会 闇の首領たち』(礒野正勝、2012年、文庫ぎんが堂), p136-138

*15 『実話時代』2019年6月号, p12,17

*16 『裏社会 闇の首領たち』, p140-141

*17 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑧ 現代ヤクザマルチ大解剖 ②』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2005年、三和出版),p137

*18 『実話時代』2019年5月号, p31

*19 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』(別冊宝島編集部編、2016年、宝島社),p158

*20 『実話時代』2014年8月号, p26

*21 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス),p323-324

*22 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫),p290-291

*23 『実話時代』2014年8月号, p25

*24 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』,p11-15

*25 『ヤクザ500人とメシを食いました!』(鈴木智彦、2013年、宝島SUGOI文庫), p224-227

*26 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p61

*27 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』,p8-10,90-92

*28 『実話時代』2019年6月号, p21

*29 『週刊実話』2023年5月4日号, p189

*30 『週刊実話』2022年10月27日号, p48-49

*31 『週刊実話』2020年11月26日号, p37

*32 『実話時代』2019年6月号, p27

*33 『闇経済の怪物たち グレービジネスでボロ儲けする人々』(溝口敦、2016年、光文社新書),p214

*34 『週刊実話』2022年4月14日号, p35

*35 『実話時代』2018年11月号, p30-31

*36 『山口組 分裂抗争の全内幕』「第9章 住吉会・稲川会に走った激震」(夏原武、2016年、宝島SUGOI文庫),p335

*37 『山口組 分裂抗争の全内幕』「第1章 神戸山口組最高幹部が明かした「我々が割って出た本当の理由」」(西岡研介、2016年、宝島SUGOI文庫), p30

*38 『山口組 分裂抗争の全内幕』「第7章 弘道会10年支配の黒歴史」(伊藤博敏、2016年、宝島SUGOI文庫), p239

*39 『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(鈴木智彦、2011年、文春新書),p251

*40 『ルポ川崎』(磯部涼、2017年、サイゾー),p18

*41 『実話時代』2019年6月号, p37-38

*42 『洋泉社MOOK・「愚連隊伝説」彼らは恐竜のように消えた』「「戦後復興」と共に歩み 「高度経済成長」によって消えた愚連隊 狂気と無垢を孕む奈落の男たちが、漆黒の時代を駆ける」(猪野健治、1999年、洋泉社),p15

*43 『洋泉社MOOK・「愚連隊伝説」彼らは恐竜のように消えた』「露と消えにし明友会」(実話時代編集部、1999年、洋泉社),p148-149

*44 『実話時代』2016年12月号, p32-34

*45 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』,p70-73

*46 『洋泉社MOOK・「愚連隊伝説」彼らは恐竜のように消えた』「新宿の不良少年の頂点に立った男 三声会・三木恢 二十五歳の血と夢」(実話時代編集部、1999年、洋泉社),p217

*47 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』,p160-163

*48 『ヤクザ・レポート』, p190-191

*49 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』,p75

*50 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版),p8-10

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