岐阜市の博徒組織「池田一家」

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 岐阜県の博徒組織「池田一家」は明治初年(1868年)、渡辺金五郎により結成されました(*1)。池田一家は結成当初、揖斐(いび)郡池田村を拠点としました(*1)。渡辺金五郎は「清水一家」総長・清水次郎長(本名:山本長五郎)(*2)の身内(子分もしくは舎弟)でした(*1)。

 渡辺金五郎は、北は越前(福井県)、南は伊勢(三重県)まで池田一家の版図を拡張したといわれています(*1)。二代目立川兼五郎は大正時代(1912~1926年)の初期、本拠地を岐阜市に移転しました(*1)。

 太平洋戦争終了(1945年)後、五代目の山田儀一は拡張路線をとっていきましたが、1948年12月博徒組織「秋葉一家」構成員により射殺されました(*1)。

 その後、分家「黒田一家」の旧井大之丞が六代目総裁に就きました(*1)。池田一家において最高位職は「総裁」でした(*3)。博徒業界にも独立(分家)する場合がありました。

 「貸元の率いる組織」(A組織)の構成員が、その組織(A組織)から縄張りの一部を譲渡してもらった上で、独立を果たすことがありました(*4)。独立した者は「貸元」の立場になりました(*4)。博徒組織では貸元の上に「総長」が位置しており、総長が各貸元に縄張りを預けていました(*5)。貸元は「総長代理」として縄張りを統治していたのです(*5)。理屈上「縄張りの所有権」は、総長に帰属していたのです。

 博徒組織「小金井一家四軒寺」は、「小金井一家」の2次団体でした(*4)。小金井一家四軒寺トップは「貸元」と名乗っていました(*4)。「小金井一家」(1次団体)は「小金井一家四軒寺」(2次団体)に東京の吉祥寺の縄張りを預けていました(*6)。

 1894年(明治二十七年)小金井一家四軒寺において田中三次が四代目を継承した際、小俣織衛は小金井一家四軒寺から縄張りの一部(井荻村から吉祥寺村の間)を譲渡してもらい、独立して貸元となりました(*4)。しかし6年後、小俣織衛は縄張り(井荻村から吉祥寺村の間)を小金井一家四軒寺に返しました(*4)。

 「貸元の率いる組織」から縄張りの一部を譲渡してもらう際の「譲渡」ですが、おそらく「一時的な貸し出し」という意味であったと考えられます。

 池田一家の話に戻ります。分家・黒田一家を興した者は、元々池田一家の構成員だったと考えられます。つまり黒田一家は「池田一家系統の組織」だったと考えられます。1960年春、六代目の旧井大之丞が病気により死去しました(*1)。

 旧井大之丞の死後、七代目総裁の座を巡り、池田一家内において板東光弘と中島巌が争いました(*1)。結局、長老の浅野元義が七代目総裁に就任することで、事態の解決が図られました(*3)。しかし板東光弘は反発し、「池田一家総裁」を自ら名乗りました(*3)。池田一家は板東光弘を破門にしました(*3)。浅野元義は、板東光弘が破門に至った責任をとり、総裁を退任しました(*3)。長老の森岡弁治郎が八代目総裁に就任しました(*3)。

  1962年春、池田一家の中堅幹部・岩田倉二が「鶴政会」(現在の稲川会)に移籍しました(*3)。鶴政会の前身は「稲川組」でした(*7)。稲川組は1949年静岡県の熱海市にて、稲川聖城により立ち上げられました(*7)。同年(1949年)稲川聖城は、熱海市の博徒組織「山崎屋一家」総長を引き継いでいました(*7)。山崎屋一家とは別の組織として、稲川組は活動していたのです。

 稲川組は横浜市、川崎市、小田原市に進出し、神奈川県内で版図を拡げていきました(*7)。1959年11月稲川組は「鶴政会」に改称しました(*7)。鶴政会結成時、稲川聖城は「稲川裕芳」と名乗っていました(*7)。鶴政会は1963年「錦政会」に改称しました(*7)。

 池田一家の中堅幹部・岩田倉二が鶴政会に移籍した後、板東光弘も鶴政会に入りました(*3)。岩田倉二は「板東光弘の義弟」でした(*1)。

 「板東光弘」と「鶴政会」をつなげたのが網口和生でした(*1)。網口和生は、鶴政会大幹部・林喜一郎の妹の夫でした(*1)。網口和生は「林喜一郎の義弟」だったのです。

 板東光弘は池田一家から破門され、脱退した頃、「網口和生の舎弟」になりました(*1)。前々から網口和生が岐阜県の賭場に頻繁に客として行っており、そこで板東光弘と交流を持つようになったのです(*1)。岐阜県の賭場が結節点となっていたのです。

 板東光弘は鶴政会の「岐阜支部長」に就きました(*3)。鶴政会内では「板東光弘の勢力」は林喜一郎の傘下に入りました(*3)。

 一方、池田一家では七代目総裁の座を巡り過去に板東光弘と争った中島巌が九代目総裁に就きました(*3)。中島巌は引退していましが、「瀬古安一家」(鈴木康雄)やテキヤ組織「芳浜会」の2次団体「菊田一家」(菊田吉彦)の支援により、復帰を果たすことになりました(*3)。芳浜会2次団体「杉井一家」も池田一家を支援しました(*3)。

 また池田一家は「本多会」の2次団体「平田会」の傘下に入りました(*3)。1963年3月警察庁は5団体を「広域暴力団」に指定しました(*8)。広域暴力団に指定されたのは山口組、本多会、「柳川組」(山口組2次団体)、「錦政会」(鶴政会の後身)、「松葉会」でした(*8)。広域暴力団の指定から、上記5団体は拡張主義をとっていたことが分かります。つまり池田一家の上部団体になった本多会は、鶴政会同様、拡張路線を走っていたのでした。

 本多会は1965年4月解散しました(*9)。当時の本多会は、平田勝市二代目会長体制(1963年7月~1965年4月)下でした(*9)。先述した平田会の創設者が平田勝市でした(*9)。平田会は兵庫県内外に24の支部を擁していました(*10)。平田勝市は1907生まれでした(*9)。平田勝市は、本多会解散と同時に、新団体「大日本平和会」を興しました(*9)。

 元々「板東光弘(鶴政会岐阜支部長)の勢力」と「瀬古安一家及び菊田一家」は角逐していました(*1)。実際1958年7月下旬、瀬古安一家及び菊田一家の構成員らが板東光弘の自宅を襲撃していました(*1)。襲撃の前、板東光弘の勢力が菊田一家構成員を拉致しており、拉致の報復として、自宅襲撃がなされたのでした(*1)。

 1962年9月16日夜、板東光弘は芳浜会2次団体・杉井一家の構成員に短銃により射殺されました(*3)。鶴政会岐阜支部長の射殺に対し、鶴政会は400人の構成員を岐阜に送り込みました(*3)。一方の芳浜会側にも応援が集まり、緊張感が高まりました(*3)。

 その時に抗争は起きませんでしたが、同年(1962年)12月14日深夜、岐阜県内の国道で乗車中、池田一家幹部の足立哲雄が銃撃され、重傷を負いました(*3)。その2時間後、池田一家側は鶴政会側の施設に対し短銃乱射しました(*3)。その後、両陣営は和解に至った模様です(*3)。

 翌1963年3月末、瀬古安一家及び菊田一家は、山口組2次団体「地道組」に加入しました(*11)。加入時、鈴木康雄(瀬古安一家トップ)と菊田吉彦(菊田一家トップ)は、地道行雄(山口組若頭兼地道組組長)の舎弟になりました(*11)。先述したように山口組も1963年3月警察庁により指定された広域暴力団の1つでした。広域3団体が岐阜県で活動することになったのです。

 山口組内では瀬古安一家は「瀬古安会」、菊田一家は「菊田組」と表記されていました(*11)。上部団体・地道組の解散に伴い、1970年瀬古安会と菊田組は「山口組2次団体」に昇格しました(*11)。瀬古安会と菊田組は、岐阜県では初めての山口組2次団体となりました(*11)。

 一方、板東光弘の死去後、鶴政会の林喜一郎は岐阜県に清家国光を送り込みました(*12)。清家国光は「錦政会岐阜支部長」(鶴政会は1963年「錦政会」に改称)に就任しました(*12)。また清家国光は「新風組」(錦政会の下部団体)を結成しました(*12)。新風組は岐阜市寺町に事務所を置きました(*12)。

 清家国光は大分県の出身で、熊本県でヤクザ組織に所属し、構成員として活動していました(*12)。1959年清家国光は中島唯雄とともに上京、稲川聖城の子分になり、鶴政会に入りました(*12)。清家国光にとって中島唯雄は熊本時代の兄弟分でした(*12)。清家国光と中島唯雄は、林喜一郎のもとに預けられました(*12)。

 清家国光が錦政会岐阜支部長として活動していた時、兄弟分の中島唯雄も度々岐阜に入って清家国光を支援していました(*12)。

 錦政会岐阜支部長・清家国光は1963年11月13日、熊本市内にて3人の襲撃犯により射殺されました(*12)。

 その後、中島唯雄が「中島一家」(稲川会2次団体)を率い、岐阜県内における稲川会の版図を守っていきました(*13)。中島唯雄には2人の実弟がおり、2人とも稲川会構成員でした(*13)。中島末継は三兄弟の真ん中で、「岐阜一家」(稲川会下部団体)総長を務めました(*13)。中島順成は「初代中島一家」(中島唯雄総長体制)では若頭を務め、2012年中島一家の二代目総長を引き継ぎました(*13)。

 中島唯雄が熊本県で活動していたことから、中島三兄弟は熊本県出身かもしれません。

 ちなみに山口組3次団体「野内組」(上部団体は山口組2次団体「弘道会」)は岐阜市を本拠地にしており(*14)、トップの野内正博組長(1966年1月生まれ) (*14)は熊本県出身で1981年頃に岐阜県の山口組2次団体「則竹組」に入りました(*15)。1990年野内正博は弘道会2次団体「髙山組」に入りました(*15)。

 岐阜県で初めて山口組2次団体となった瀬古安会と菊田組ですが、1978年6月両団体において幹部らがクーデターを起こしました(*11) (*16)。ヤクザ業界のクーデターとは、「子分もしくは舎弟」格の者が「親分・兄」格の者を逆に破門することであり、「逆縁」とも呼ばれました(*17)。

 同年(1978年)8月山口組(1次団体)執行部はクーデター実行側を支持し、両団体トップ(鈴木康雄と菊田吉彦)を除籍処分にしました(*11)。執行部は両団体での逆縁を認めたのです。

 旧瀬古安会勢力、旧菊田組勢力は「山口組本部の預かり」となりました(*16)。預かり中に旧瀬古安会及び旧菊田組の幹部らが新団体「山心会」を結成しました(*16)。

 しかし山心会が2次団体に昇格することはありませんでした(*16)。1979年山心会幹部ら8人が直参となりました(*16)。つまり各々の率いる団体(8団体)が2次団体に昇格したのです。

 当時(1978~1979年)の山口組は、三代目田岡一雄組長体制(1946~1981年)下でした(*18)。また当時の山口組(1次団体)若頭は山本健一(在任期間:1971~1982年)でした(*19)。

 先述したように山心会の結成は、旧瀬古安会及び旧菊田組幹部らの意思に基づいたものでした。もしかしたら1次団体執行部が「山心会結成」を発案し、旧瀬古安会及び旧菊田組幹部らが主体的に作ったかのように、見せかけたのかもしれません。

 結果的には山心会は2次団体に昇格せず、8団体に分割された上で、各団体が2次団体に昇格することになりました。1次団体執行部は「山心会結成」や「山心会の2次団体昇格」を好ましく思わなかったのだと考えられます。

 先述の柳川組(山口組2次団体)は1969年4月解散しました(*20)。先述したように柳川組も1963年3月警察庁により指定された広域暴力団の1つでした。柳川組(二代目谷川康太郎組長体制)は1次団体に無断で解散したことで、山口組(1次団体)は前組長の柳川次郎と谷川康太郎を絶縁処分にしました(*20)。

 旧柳川組勢力は、柳川組大幹部だった野澤儀太郎(一会会長)、金田三俊(金田組組長)、藤原定太郎(藤原会会長)、石田章六(石田組組長)により引き継がれました(*20)。その4人は同年(1969年)9月直参となり、各々の率いる組織は山口組2次団体に昇格しました(*20)。この過程で旧柳川組勢力は4分割されたのです。

 旧柳川組勢力4分割の措置から、田岡一雄組長が「2次団体の巨大化」を好ましく思っていなかったことが読み取れます。

 「旧瀬古安会勢力」と「旧菊田組勢力」の合併による山心会は、1次団体執行部にとって警戒すべき対象に映ってしまったのかもしれません。

 1972年10月山口組と稲川会は、最高幹部同士の「五分兄弟盃」(二組)を交わし、親戚関係になりました(*21)。この盃事により山口組と稲川会は同盟を結んだのです。

 別の資料によれば、当時(1972年10月)稲川会の勢力は「稲川一家」もしくは「稲川組」と呼ばれていました(*22)。同年(1972年)12月、稲川聖城は自身の組織を「稲川会」に改称しました(*22)。一方「稲川会改称」は同年(1972年)3月にされたとする資料もあります(*21)。

 警察庁は1964年2月ヤクザ組織に対する取り締まり強化作戦(通称:「頂上作戦」)を開始しました(*23)。頂上作戦により1965年錦政会は解散しました(*23)。先述したように本多会も1965年解散していました。本多会の解散も頂上作戦が背景にありました(*23)。1965年~1972年、旧錦政会勢力は「稲川一家」もしくは「稲川組」と呼ばれていたのです(*22)。

 また1972年10月の盃事において、山口組と稲川会の間で「山口組は多摩川を超えず」という約束が交わされたといわれています(*24)。

 多摩川は「東京都」と「神奈川県」の都県境を流れ、下流では東京都大田区と川崎市川崎区との境で東京湾に注いでいます。つまり下流の方では、東京都に向かって多摩川を超えると東京都大田区があり、逆に神奈川県に向かって多摩川を超えると川崎市川崎区があります。

 「山口組は多摩川を超えず」という約束の履行は、「山口組は神奈川県以外の関東地方に進出せず、神奈川県で留まる」ということを意味していました。

 2005年9月まで山口組は、神奈川県以外の関東地方では「代紋を掲げた組事務所」をほとんど出していませんでした(*24) (*25)。

 しかしバブル経済(1980年代後半から1990年代初頭)の頃から、山口組勢力は、神奈川県以外の関東地方に「企業事務所」「連絡事務所」を出すという形で、進出していきました(*24)。1990年2月に起きた「八王子抗争」(山口組2次団体「宅見組」対「二率会」)時、警察組織の調べから、東京都区部(23区)だけで約30団体(山口組下部団体)が事務所(代紋を掲げていない事務所)を出していたことが明らかになりました(*24)。

 「山口組は多摩川を超えず」という約束は、完全には履行されなかったのです。もしくは、厳しい言い方をすると、「山口組は多摩川を超えず」という約束は有名無実化したのです。

 2005年9月関東の独立団体「國粹会」が山口組傘下に入りました(*25)。2005年9月以降 関東地方において、山口組2次団体となった國粹会勢力は、自身の事務所で「山口組の代紋」を掲げることになったのです。

 話を岐阜県に戻します。2004年末時点の岐阜県においてヤクザ組織の団体数は63で、その総人数は1,800人でした(*26)。勢力比は稲川会が4割強、山口組も4割強でした(*26)。

 2015年時点の岐阜県においてはヤクザ組織の団体数は34で、その総人数は800人でした(*27)。総人数のうち400人が山口組に属していました(*27)。

<引用・参考文献>

*1 『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫), p41-44

*2 『大相撲史入門』(池田雅雄、2020年、角川ソフィア文庫),p325

*3 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p62-65

*4 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店),p70-73

*5 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p193-194

*6 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p29-30

*7 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p32-34

*8 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社)p,98

*9 『実話時代』2019年9月号,p23

*10 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、1998年、講談社+α文庫),p108

*11 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス),p52

*12 『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』, p53-60

*13 『実話時代』2014年8月号, p36

*14 『BAMBOO MOOK 二代目弘道会総覧』(ジェイズ・恵文社編、2010年、竹書房),p115

*15 『週刊実話』2019年11月28日号, p34

*16 『六代目山口組10年史』(2015年、メディアックス),p31

*17 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p79

*18 『山口組の100年 完全データBOOK』,p18-21

*19 『武闘派 三代目山口組若頭』(溝口敦、1999年、講談社+α文庫),p183-188,378

*20 『洋泉社MOOK・「愚連隊伝説」彼らは恐竜のように消えた』「「戦後復興」と共に歩み 「高度経済成長」によって消えた愚連隊 狂気と無垢を孕む奈落の男たちが、漆黒の時代を駆ける」(猪野健治、1999年、洋泉社),p15

*21 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社),p36

*22 『山口組若頭』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p118-122

*23 『現代ヤクザ大事典』,p168-170

*24 『洋泉社MOOK・山口組・史上空前の四万人軍団動く!』(有限会社創雄社『実話時代』落合章子・木下明美編、2005年、洋泉社),p70

*25 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫),p46

*26 『洋泉社MOOK・山口組・史上空前の四万人軍団動く!』,p78

*27 『実話時代』2019年2月号「全国指定二十四団体を完全網羅! 最新版ヤクザ勢力図 激闘の縮図が此処にある!」(人数はすべて警察資料によるものと考えられる),p21

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