「山口組」の主要2次団体「弘道会」の前身は、「弘田組」でした(*1)。弘田組(山口組2次団体)は1984年6月に解散、組長・弘田武志は引退しました(*1)。弘田組解散と同時に、旧弘田組の若頭・司忍が旧弘田組勢力を受け継ぐ形で、同年(1984年)新団体・弘道会を結成しました(*1) (*2)。司忍は弘道会会長となり、また上部団体・山口組の竹中正久四代目組長(在任期間:1984年6月~1985年1月、体制期間:1984年6月~1989年) (*3)の子分になりました(*2)。弘道会は、前身の弘田組同様、山口組2次団体となったのでした。
竹中正久四代目組長の誕生時(1984年6月)、竹中正久四代目体制を認めない勢力が山口組を脱退、「一和会」を結成しました(*1) (*2)。実は弘田武志は一和会に参加しようとしていました(*1)。しかし弘田組内では「一和会加入」に反発する勢力もおり、若頭・司忍が「山口組残留主張派」でした(*1)。結果、先述したように、弘田組は解散、組長・弘田武志は引退しました。弘田組内で山口組残留主張派が組長・弘田武志ら「一和会加入主張派」を押し切ったと考えられます。組織の行先を巡る問題により、弘田組では「早めのトップ交代」が行われたと見ることもできます。
弘田組は1963年、鈴木組内にて、弘田武志により結成されました(*2)。弘田組の上部団体である鈴木組は、山口組2次団体でした(*2)。鈴木組トップの鈴木光義(本名は中森光義)は、山口組の田岡一雄三代目組長(体制期間:1946年夏~1981年)(*4) (*5)の舎弟でした(*2)。鈴木光義は1949~1950年頃、田岡一雄三代目組長の盃を受け(田岡一雄の舎弟になり)、鈴木組を結成しました(*2)。
後に鈴木組は解散、下部団体・弘田組が他の旧鈴木組勢力を吸収し、勢力を拡張させていきました(*2)。1969年1月弘田武志(弘田組組長)は田岡一雄三代目組長の子分となり、弘田組は山口組2次団体となりました(*2)。
これまでの流れをまとめると、以下になります。
1949~1950年頃「鈴木組」(山口組2次団体)結成→1963年「弘田組」(鈴木組2次団体)結成→1969年弘田組は山口組2次団体に昇格→1984年6月弘田組解散、「弘道会」結成
弘田武志は高知県の出身で、大阪で港湾荷役の仕事をしていました(*2)。後に弘田武志は1952年頃名古屋に来て、鈴木組(1949~1950年頃結成)に加入しました(*2)。
実は弘田武志は1953年2月、高知県高知市内で重傷を負いました(*6)。当時、弘田武志は安岡彰の「若い者」でした(*6)。安岡彰は戦前(1941年以前)から愚連隊として活動しており、戦後も高知市内の游俠横町を拠点に愚連隊として活動していました(*7)。安岡彰は別名「メリケンの安」として知られており、高知市の裏社会では有名な人物でした(*7)。安岡彰の兄弟分(義兄弟)として出原巌がいました(*7)。
安岡彰は当時、覚醒剤等の依存症に陥っていました(*7)。安岡彰と出原巌の間で仲たがいが起き、2人は兄弟分の縁を切りました(*6)。この兄弟分が切れたことに関して、安岡彰の配下であった弘田武志が、日本刀を持ち、出原巌宅に殴り込みをかけました(*6)。出原巌宅の客人(山地秀夫)が、出原巌の代わりに、弘田武志と対戦しました(*6)。山地秀夫は弘田武志から日本刀を奪い取り、弘田武志を複数回切り、重傷に至らしめました(*6)。その後、出原巌と山地秀夫は安岡彰宅に向かい、安岡彰を殺害しました(*6)。出原巌と山地秀夫はこの殺人等の事件で有罪判決を受け、服役をしました(*6)。その後、弘田武志は名古屋に行き、港湾関係の建設会社の下請けをしました(*8)。
弘田武志は1953年以降に名古屋に行ったと考えられます。
以上の話を踏まえると、弘田武志は1953年以降、鈴木組に入ったことで「山口組の構成員」になったと考えてしまいます。しかし実は弘田武志は、1946年6月山口組の小林正吉の子分になりました(*9)。小林正吉は「山口組組長(田岡一雄もしくは山口登)の舎弟」でした(*9)。
山口登二代目組長体制時(1925~1942年)(*10)、小林正吉は「山口組の幹部」でした(*11)。1933年時、小林正吉は大阪築港で沖仲仕請負業を手掛けていました(*11)。港湾荷役労働者は昔「仲仕(なかし)」と呼ばれていました(*12)。
仲仕には「沿岸仲仕」と「沖仲仕」の2つがありました(*12)。沿岸仲仕は「沿岸から艀(はしけ)に」荷物を積み、沖仲仕は「艀から貨物船に」荷物を積み込みました(*12)。小林正吉は大正運輸株式会社と直接関係を持っていました(*11)。
弘田武志は1930年9月4日生まれでした(*9)。しかし藤田五郎の『実録 乱世喧嘩状』によれば、弘田武志の本籍は名古屋で、弘田武志は1952年3月に名古屋に戻ったとなっていました(*9)。
資料によって「弘田武志が名古屋に行った時期」が異なっています。
弘田武志が1946年6月から「山口組の構成員」だった場合、その約7年後の1953年2月時点(高知市で重傷を負った時)でも山口組の構成員だった可能性があります。しかしその時、弘田武志は、高知市の安岡彰(愚連隊)の「若い者」でした。もしかしたら実際は、弘田武志(山口組構成員)は地元の高知に帰り、しばらく高知で休暇をとっており、その際に安岡彰の「客人」になっていただけかもしれません。
1957年3月大分県別府市において「石井組」(山口組3次団体)と「井田組」の間で抗争が勃発しました(*13)。山口組は石井組を支援する為、応援部隊を別府市に派遣しました(*13)。また同年(1957年)11月徳島県小松島市において「小天竜組」(山口組2次団体)と「福田組」(「本多会」2次団体)の間で抗争が勃発しました(*14)。この際にも山口組は小松島市に応援部隊を派遣しました(*14)。山口組は1957年以降、兵庫県外で抗争を繰り広げていき、版図を拡大していきました。
逆にいえば1957年以前の山口組において、兵庫県外では目立った抗争はなかったようです。
もし弘田武志が山口組の構成員で、また出原巌宅の客人(山地秀夫)に重傷を負わせられたのが1957年以降だった場合、山口組側は高知市に進出していったのかもしれません。
実際はその頃、高知市の組織が山口組に加入しました。
1957年頃、「中井組」(高知市)組長の中井啓一は田岡一雄三代目組長の舎弟になり、中井組は山口組2次団体になりました(*15)。中井啓一は元々、愚連隊を率いていました(*7) (*16)。1954年頃警察組織は中井啓一の勢力を「中井組」として認定していました(*17)。
中井啓一は若かりし頃、大阪築港の顔役・小林某に預けられていました(*18)。小林某は、山口組の山口登二代目組長(体制期間:1925~1942年)から盃を受けていたらしいです(*18) 。1957年頃中井組が山口組に加入するにあたっては、この小林某が田岡一雄に会い、中井組が山口組に加入する仲介をしました (*19)。当初、田岡一雄は中井啓一を子分にしようとしましたが、小林某の助言により、舎弟にしました(*19)。
この「小林某」とは先述した小林正吉ではないかと、筆者は考えています。
弘田武志の話に戻します。弘田組時代において弘田武志は、博徒組織「瀬戸一家」の鴨下金五郎(総裁代行)とは兄弟分の関係を有していました(*9)。弘田武志は2009年、死去しました(*20)。弘道会の「弘」は、弘田武志の苗字からとられています(*1)。
<引用・参考文献>
*1 『洋泉社MOOK・山口組・東京戦争』(有限会社創雄社編、2005年、洋泉社), p97-98
*2 『実話時代』2019年9月号, p116-119
*3 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p22-27
*4 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、1998年、講談社+α文庫),p78
*5 『山口組の100年 完全データBOOK』, p18-21
*6 『鯨道:土佐游俠外伝』(正延哲士、1997年、洋泉社), p60-71
*7 『鯨道:土佐游俠外伝』, p56-59
*8 『鯨道:土佐游俠外伝』, p77
*9 『実録 乱世喧嘩状』(藤田五郎、1976年、青樹社), p6-7
*10 『山口組の100年 完全データBOOK』, p16-17
*11 『昭和の俠客:鬼頭良之助と山口組二代目』(正延哲士、2002年、ちくま文庫),p176-178
*12 『FOR BEGINNERS シリーズ ヤクザ』(朝倉喬司、1990年、現代書館), p107-108
*13 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p94-97
*14 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』, p92-93
*15 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑧ 現代ヤクザマルチ大解剖 ②』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2005年、三和出版),p134
*16 『鯨道:土佐游俠外伝』, p45
*17 『鯨道:土佐游俠外伝』, p76
*18 『鯨道:土佐游俠外伝』, p35
*19 『鯨道:土佐游俠外伝』, p80
*20 『山口組の100年 完全データBOOK』, p350
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