実子分

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 テキヤ組織には「実子分(じっしぶん)」という地位がありました。実子分は「実子に相当する者」という意味で、「親分候補」(跡目候補)を表す言葉でもありました(*1)。実子分になった者は「一家名乗り」もしくは「分家名乗り」をすることができました(*2)。

 テキヤ組織内で実子分より下位にあったのが「稼ぎこみ」と「一本(いっぽん)」でした(*3)。稼ぎこみと一本は「若い衆」と呼ばれる段階の者たちでした(*3)。

 稼ぎこみは、親分から商品を借りて、その商品を露店で販売しました(*4)。

 一本には2種類ありました(*4)。1つは、一本が親分から商品と資本を借りて、露店で販売し、その「利益の半分」を親分に提供するというものでした(*4)。もう1つは、一本が自分の資本で親分から商品を1割高くらいで仕入れるものの、露店営業における利益を全て自分のものにできるというものでした(*4)。

 テキヤ組織「寄居分家」内の「五代組」トップの五代博は18歳で、寄居分家の飯久保武の子分になりました (*5)。その後、五代博は稼ぎこみの期間を経て、26歳の時に実子分となりました(*5)。そして29歳の時、五代博は一家名乗りをしました (*5)。ちなみに男性のみがテキヤ組織の構成員になれました(*3)。

 テキヤ組織によっては「実子分の位置付け」が若干異なっていたようです。

 猪野健治の『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』では、実子分は純粋に「所属組織(本家)の親分候補」であり、「一家名乗り」の有資格者は実子分ではない子分、「分家名乗り」の有資格者は舎弟であるという内容が、記述されていました(*6)。猪野健治が対象としたテキヤ組織では、「実子分以外の構成員」が一家名乗りもしくは分家名乗りしていたのです。

 テキヤ組織によっては実子分を複数設けている場合もありました(*6)。実子分(跡目候補)が一人の場合、その該当者が死亡したら、そのテキヤ組織は再び跡目候補を選出していかなければなりません。その混乱を防ぐ為に、複数実子分制が敷かれていました(*6)。

 複数実子分制において、一人の実子分が組織(A)のトップ(親分)になった場合、残りの実子分は組織(A)の顧問や相談役の地位に就きました(*6)。

 「飴徳」一門(竹内徳次郎系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)の宗家組織は「飴徳一家」でした(*7)。飴徳一家の初代が竹内徳次郎でした(*7)。飴徳一家四代目は永持英哉でした(*7)。資料から確認できる永持英哉の直接的配下(子分もしくは舎弟)は15人で、内訳は一家名乗りした者が4人、分家名乗りした者が5人、実子分が4人、一家(親分は永持英哉)内の者が2人でした(*7)。

 ちなみに元の所属組織は、分家名乗りして独立した者に、庭場(縄張り)の一部を譲渡しました(*8)。一方、一家名乗りして独立した者には、元の所属組織は庭場を割譲しませんでした(*8)。

 庭場を持つ組織のトップは、その庭場内では、「庭主(にわぬし)」と呼ばれました(*9)。庭主は、その庭場内の高市(たかまち)において「露店配置の決定権」を有していました(*9)。高市とは、社寺の祭礼や縁日に仮設される露店市のことでした(*10)。庭主の別名としては「世話人」(*9)、また昔は「帳元」(*11)という呼び方がありました。

 「本家熊屋駄知分家」六代目の長瀬忠雄によれば、高市では動線の往路(行き道)は「ケリコミ」、復路(帰り道)は「ゴイバ」と呼ばれていました(*12)。またケリコミ(往路)は流れが速く、ゴイバ(往路)は流れが遅い傾向がありました(*12)。

 庭主は高市において出店者から場所代を徴収しました(*10)。各出店者の場所代は、概ね「高市の総経費」÷「出店数」で求められました(*10)。高市の総経費の1つとして「社寺への謝礼」がありました(*10)。社寺への謝礼は、別名「奉納金」と呼ばれました(*13)。奉納金は、露店商側が社寺の敷地を借りたことの代金でした(*13)。

 見積りより総経費が上回ってしまった場合、高市の終了時に庭主が「掃除代」という名目で出店者から追加の徴収を行いました(*14)。

 飴徳一門の桑島広次は「飴徳二代目肥後一家鈴木三代目」の親分でした(*7)。鈴木鉄三郎が宗家組織・飴徳一家(二代目・肥後盛蔵)から、一家名乗りして、「飴徳二代目肥後一家鈴木」という稼業名の一家を興しました (*7)。進藤時次郎が飴徳二代目肥後一家鈴木二代目を継承し、桑島広次がその三代目を継承しました(*7)。

 資料から確認できる桑島広次の直接的配下(子分もしくは舎弟)は13人で、内訳は一家名乗りした者が4人、実子分が4人、一家(親分は桑島広次)内の者が5人でした(*7)。

 ちなみに先述の永持英哉(飴徳一家四代目)は1982年1月「飴徳連合会」の会長を務めていました(*15)。飴徳連合会は飴徳一門の統括団体だったと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p30

*2 『ヤクザ大全 その知られざる実態』(山平重樹、1999年、幻冬舎アウトロー文庫),p49

*3 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書),p141

*4 『テキヤのマネー学』(監修:仲村雅彦、取材・構成:高橋豊、1986年、東京三世社),p77

*5 『ヤクザ大辞典 親分への道』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫),p156-157

*6『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房),p99-100

*7『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p390-391

*8『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p72-73

*9 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p157

*10 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書),p44-45

*11 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p147

*12 『わんちゃ利兵衛の旅 テキヤ行商の世界』(神崎宣武、2023年、ちくま文庫),p205,210,212-213

*13 『裏社会の日本史』(フィリップ・ポンス、安永愛 訳、2018年、ちくま学芸文庫), p493

*14 『わんちゃ利兵衛の旅 テキヤ行商の世界』,p214

*15『公安大要覧』,p388-389

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