極東桜井總家連合会の歴史

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 テキヤ組織「極東桜井總家連合会」は、1993年7月静岡県公安委員会から「指定暴力団」に指定されました(*1)。極東桜井總家連合会は、「桜井一門」(桜井庄之助系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)の統括団体として、1975年結成されました(*2)。桜井一門の本家は「極東桜井總家」でした(*2)。

 極東桜井總家の初代は桜井庄之助(さくらいしょうのすけ)でした(*2)。1916年(大正五年)桜井庄之助は横浜から静岡県沼津市に移り、1921年(大正十年)「桜井一家」(正式名称「東海道桜井一家」)を立ち上げました(*3)。桜井一家が桜井一門の源流組織となりました(*2)。桜井一家は後に「極東桜井總家」と呼ばれるようになりました(*2)。

 1924年(大正十三年)日野清吉が桜井一家二代目(極東桜井總家二代目)を継承しました(*4)。桜井一家は沼津市で地盤を築いていきました(*4)。

 1961年関口愛治の「関口一門」(関口愛治系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)と横浜の「飴徳一門」(竹内徳次郎系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)(*3)とともに、桜井一門は「極東愛桜連合会」(きょくとうあいおうれんごうかい)を結成しました(*2)。同年(1961年)、山田惣一が本家の極東桜井總家五代目を継承しました(*5)。

 警察庁の厳しい取締りにより、1967年極東愛桜連合会は解散しました(*2)。1974年芹澤政雄が極東桜井總家六代目を継承しました(*5)。

 翌1975年、極東桜井總家は福島の「桜井一家古市組」、甲府の「桜井一家名取組」、御殿場の「桜井一家遠藤組」を併合して、先述したように極東桜井總家連合会を立ち上げました(*2)。連合会トップの総長には、芹澤政雄が就任しました(*2)。

 1994年芹澤保行が極東桜井總家七代目を継ぎました(*6)。しかし2004~2005年頃、極東桜井總家連合会は分裂しました(*1) (*7)。2005年静岡県公安委員会は極東桜井總家連合会から「指定暴力団」の指定を外しました(*1)。2004年時点の極東桜井總家連合会の勢力は、構成員数約330人で、活動範囲は6県に及んでいました(*8)。

 「極東桜井總家」は、桜井一門の本家の名称でした。一方「極東桜井總家連合会」は、桜井一門の統括団体(連合会)でした。

 「極東桜井總家」のように「連合会」などがつかない名前は、本来は「稼業名」であり、組織を意味するものではありません(*9)。

 テキヤ業界では所属組織(宗家組織)から独立する際、「一家名乗り」「分家名乗り」という2つの方法がありました(*10)。「一家名乗り」は実績のある子分に許されました(*11)。一方「分家名乗り」は一般的に実績のある舎弟(トップ=親分の弟分)に許されました(*11)。

 元の所属組織(宗家組織)は、一家名乗りして独立した者には、庭場を割譲しませんでした(*12)。一方、元の所属組織は分家名乗りして独立した者には、庭場(縄張り)の一部を譲渡しました(*12)。

 先述したように極東桜井總家の初代・桜井庄之助は1921年、静岡県沼津市にて桜井一家を立ち上げました。元々、桜井庄之助は横浜のテキヤ組織「飴徳一家」(初代・竹内徳次郎)に所属していました(*3)。竹内徳次郎は、先述した飴徳一門の祖になりました。

 桜井庄之助は1921年、竹内徳治郎(飴徳一家初代)の引退に伴って、飴徳一家から一家名乗りをする形で、桜井一家を立ち上げたのでした (*3)。

 また先述したように1975年極東桜井總家(元々は桜井一家)は福島の桜井一家古市組、甲府の桜井一家名取組、御殿場の桜井一家遠藤組を併合して、極東桜井總家連合会を立ち上げました。

 桜井一家古市組、桜井一家名取組、桜井一家遠藤組の3団体は、桜井一門(桜井庄之助系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)でした(*13)。桜井一家古市組、桜井一家名取組、桜井一家遠藤組の3団体は、桜井庄之助(桜井一家初代)から「一家名乗り」する形で結成されました(*13)。

 先述の極東桜井總家六代目・芹澤政雄は1993年11月6日に死去しました(*14)。芹澤政雄は死去するまで、極東桜井總家連合会の総長も兼任していました(*14)。先述したように芹澤政雄は1974年に極東桜井總家六代目を継承していました。

 極東桜井總家六代目体制時(1974~1993年)の極東桜井總家連合会(1975年結成)には「芹澤分家高木一家島田組」「芹澤分家高木一家正木組」が活動していました(*13)。

 おそらく芹澤政雄(極東桜井總家六代目兼極東桜井總家連合会総長)が元々率いていた組織(「芹澤一家」)から分家名乗りして結成されたのが「高木一家」だったと考えられます。

 その高木一家から「一家名乗り」もしくは「分家名乗り」をする形で「島田組」「正木組」が結成されたと考えられます。

 極東桜井總家の初代・桜井庄之助は、横浜では演歌師として活動していました(*15)。演歌師の別名は「演歌屋」で、演歌屋は街頭で演歌を歌い、その歌本(歌詞が刷り込まれた折り本)を販売することで、収益を得ていました(*16)。演歌屋の営業場所は、高市(社寺の祭礼や縁日における仮設露店市)(*17)や都会の盛り場(東京の浅草、大阪の道頓堀・千日前、名古屋の大須観音など)でした(*16)。演歌師と露店商(テキヤ)の距離は近かったのです。

 桜井庄之助の妻(つる)も演歌師で、「桜井のおつるさん」と呼ばれました(*18)。

 一方、横浜時代の桜井庄之助は、飴徳一家内で筆販売を手掛けていました(*19)。桜井庄之助が「筆販売を手掛けつつ同時に演歌師をしていた」のか、もしくは「どちらか一方を先にしていた後にもう一方をしていた」のかは不明です。

<引用・参考文献>

*1 警察庁「平成17年の暴力団情勢」,p21

*2 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社),p134

*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p31,38-39

*4 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p43

*5 『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』(山平重樹、2014年、幻冬舎アウトロー文庫), p239

*6 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p164

*7 『実話時代』2015年3月号, p44

*8 警察庁「平成16年の暴力団情勢」,p21

*9 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房),p23

*10 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p28

*11 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p99

*12 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p72-73

*13 公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p329-330

*14 『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』,p235

*15 『生活史叢書14 演歌師の生活』(添田知道、1994年、雄山閣),p111

*16 『生活史叢書14 演歌師の生活』,p18,21-25

*17 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書), p44

*18 『生活史叢書14 演歌師の生活』,p173-174

*19 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p33

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