昔の日本ではヤクザ組織がサーカス等の興行に影響力を持っていました。特に仮設興行はテキヤ組織の領域でした(*1)。仮設興行には、サーカス、移動動物園、化物屋敷、女プロレス等がありました(*1)。
1892(明治二十五)年頃、北海道の札幌でテキヤ組織「木暮一家」が発足しました(*2)。東京のテキヤ組織「橋場一家」出身の木暮留吉が、「虎の見世物」を持って札幌に移住し、木暮一家を立ち上げたのでした(*2)。
仮設興行界において一座の長(小屋主)は「太夫元(たゆうもと)」または「荷主(にぬし)」と呼ばれました(*3)。一方、各地方の世話人は「分方(ぶかた)」と呼ばれました(*3)。興行の収益は、太夫元が六分(60%)、分方が四分(40%)という割合で一般的には分けられていました(*4)。この割合は「四分六勘定」(分方の方が先にきました)といわれていました(*4)。その取り分は「分金(ぶきん)」と呼ばれました(*4)。また太夫とは芸人のことでした(*5)。
1979年頃、札幌市の北海道神宮祭における仮設興行では水野四郎が分方を務めていました(*6)。この「水野四郎」は、おそらく後に「木暮一家」五代目を継承した水野四郎(*7)だったと思われます。木暮一家は「稲川会」の2次団体で、札幌を拠点に活動していました(*7)。
木暮一家の初代は木暮初太郎でした(*8)。木暮初太郎は、木暮一家の祖・木暮留吉の長男でした(*8)。大正時代(1912~1926年)、木暮初太郎は「北海道中の仮設興行元の親分」として有名でした(*8)。
また木暮初太郎は「キグレサーカスの祖」と位置づけられていました(*1)。1961年時キグレサーカスの太夫元(座長)は、水野維佐雄でした(*1)。木暮一家とキグレサーカスの間には、何かしらの関係があったことが考えられます。
シバタサーカスは「源清田(げんせいだ)」一門を出身母体としていました(*9)。千葉県銚子市の山本弥平がテキヤ組織「源清田一家」を結成しました(*10)。
シバタサーカスの運営会社は、シバタ興行でした(*11)。シバタ興行は新潟県新発田を本拠地とし、山形県や福島県、群馬県等に80館以上の直営館も有していました(*11)。
源清田一門の宗家(源清田一家)の初代は、先述の山本弥平でした。宗家(源清田一家)二代目は内田広吉でした(*12)。1930年時、内田広吉の実兄は「黒須曲馬団」というサーカス団の団長でした(*12)。
また八木サーカスは、地元九州のヤクザ組織「八木一家」と関わっていました(*13)。
1928年(昭和三年)、昭和天皇の御大典(即位の礼・大嘗祭)に際し、博徒組織「土支田一家」は武蔵境から国分寺駅間の沿道警備を担当しました(*14)。当時、土支田一家は「大日本国粋会関東本部」に加盟していました(*15)。大日本国粋会関東本部が土支田一家に武蔵境から国分寺駅間の沿道警備を割り当てたのでした(*14)。その数日前、「矢野曲馬団」(サーカス団体)の者が土支田一家構成員を殴り、報復として土支田一家側は約50人の構成員で矢野曲馬団に殴り込みをかけ、4~5人に重軽傷を負わせました(*14)。板橋署は土支田一家の二十数人を検挙、篠信太郎(土支田一家三代目総長)も検挙しました(*14)。矢野曲馬団の団長の実兄は、岡山のテキヤ組織の大親分でした(*14)。
1979年頃、日本には3つのオートバイサーカスがあったといわれています(*16)。3つとは、北海道の「キグレオートバイサーカス」、東京の「吉本オートバイサーカス」、広島の「中国オートバイサーカス」でした(*16)。キグレオートバイサーカスは名前から、先述のキグレサーカスの派生団体と考えられます。吉本オートバイサーカスは、吉本力が率いていました(*17)。中国オートバイサーカスは、作田という人物が率いていました(*16)。
オートバイサーカスに関しては「大頭龍」一門(大頭龍為五郎系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群。資料では「大東流」と記載されていた為、訂正しました)の勢力も、「オートバイ曲乗り」(オートバイに乗っての曲芸)を手掛けていました(*18)。
大頭龍一門の中で吉本治作が「仮設興行界の顔役」でした(*19)。大頭龍一門の宗家組織は「大頭龍一家」で、大頭龍一家の初代が大頭龍為五郎でした(*19)。吉本治作は、初代(大頭龍為五郎)体制の大頭龍一家から「分家名乗り」をして、独立を果しました(*19)。吉本治作は分家名乗りした後は、稼業名として「大頭龍吉本」を用いたことから、独立といっても大頭龍一門内にはとどまっていました(*19)。吉本治作は東京で活動していました(*19)。後に落合漲治が「大頭龍吉本二代目」を継承しました(*19)。
先述の吉本オートバイサーカスを率いていた吉本力と大頭龍一門の治作は姓(苗字)が同じであり、両者は何かしらの関係があったのかもしれません。
<引用・参考文献>
*1『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社),p50-53
*2『実話時代』2016年10月号, p109
*3『間道 – 見世物とテキヤの領域』(坂入尚文、2006年、新宿書房),p32
*4『間道 – 見世物とテキヤの領域』,p43
*5『間道 – 見世物とテキヤの領域』,p46
*6 『間道 – 見世物とテキヤの領域』,p12,38,52
*7 『実話時代』2014年8月号,p31
*8『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』(藤田五郎、1973年、徳間書店),p181-182
*9 『朝倉喬司芸能論集成―芸能の原郷 漂泊の幻郷』(朝倉喬司著・『朝倉喬司芸能論集成』編集委員会編、2021年、現代書館), p890
*10『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う』(鈴木智彦、2021年、小学館文庫),p133
*11『興行界の顔役』(猪野健治、2004年、ちくま文庫),p93
*12 『関東やくざ者』(藤田五郎、1971年、徳間書店),p167
*13 『実話時代』2016年4月号, p15
*14 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店),p242
*15 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社),p12-18
*16 『間道 – 見世物とテキヤの領域』,p12,50
*17 『間道 – 見世物とテキヤの領域』,p27
*18『大俠客 – 実録戦後やくざ史』「北海道やくざ者」(藤田五郎、1989年、青樹社),p218
*19 『サムライ 六代目山口組直参 落合勇治の半生』(山平重樹、2018年、徳間書店), p72-73
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