ワンパーセンターズ(1%ers)系バイカークラブの構成員はハーレー・ダビッドソン(Harley Davidson)社のバイク(モーターサイクル)に乗りました(*1)。
ワンパーセンターズ系バイカークラブの構成員はイタリア製スポーツバイクを「パスタ・ロケット」(Pasta Rockets)(*2)、日本製バイクを「ライス・バーナー」(Rice Burner)(*3)という軽蔑的な言葉で言い表していました。
例外もありました。カナダのモントリオールのワンパーセンターズ系バイカークラブ「ロック・マシーン」(Rock Machine)構成員の中には、日本製スポーツバイクに乗る者もいました(*4)。
バイクメーカーのハーレー・ダビッドソン社は1903年ウィスコンシン州ミルウォーキーで誕生しました(*5)。ハーレー・ダビッドソン社の創設者は、ウィリアム・ハーレー、アーサー&ウォルター・ダビッドソン兄弟の3人でした(*5)。1905年彼らは3台のバイクを開発しました(*5)。1906年末ハーレー・ダビッドソン社は1度に50台生産可能な製造ラインを確立させました(*5)。翌1907年にはダビッドソン兄弟のウィリアムが経営に加わり、ハーレー・ダビッドソン社は株式会社になりました(*5)。
そこでウォルター・ダビッドソンが「社長」、アーサー・ダビッドソンが「営業部長」、ウィリアム・ダビッドソンが「工場長」、ウィリアム・ハーレーが「チーフエンジニア」を務めることになりました(*5)。
ハーレー・ダビッドソン社は1928年、アメリカンモーターサイクル協会(AMA:American Motorcycle Association)を実効支配することに至りました(*6)。
アメリカンモーターサイクル協会は1924年に設立されました(*7)。アメリカンモーターサイクル協会の前身は「アメリカンモーターサイクリスト協会」(American Motorcyclists’ Association)でした(*7)。
ワンパーセンターズ系バイカークラブは元々「アウトロー・モーターサイクル・クラブ」(Outlaw motorcycle club)と総称されていました(*7)。アウトロー・モーターサイクル・クラブは、アメリカンモーターサイクリスト協会及びアメリカンモーターサイクル協会に「非加盟」でした(*7)。逆にいえばアメリカンモーターサイクル協会側はアウトロー・モーターサイクル・クラブとは関係を持たず、彼らの加盟を許可しませんでした(*8)。
アウトロー・モーターサイクル・クラブの構成員らは、従来のバイカー(アメリカンモーターサイクル協会の加盟を希望し、伝統的社会・規則・法律に縛られているバイカー)とは違うように見られたかったのです(*8)。
1947年7月4日カリフォルニア州フォリスターのイベントにて非加盟のアウトロー・モーターサイクル・クラブのメンバーらが暴動を起こしたことで、アメリカンモーターサイクル協会は非加盟のアウトロー・モーターサイクル・クラブを非難しました(*7)。
つまりアメリカンモーターサイクル協会を実効支配するハーレー・ダビッドソン社にとって、アウトロー・モーターサイクル・クラブ(ワンパーセンターズ系バイカークラブ)は「好ましくない存在」だったのです。
アメリカンモーターサイクル協会において1928年から1958年まで書記長(general secretary)を務めたのがE.C.スミス(E.C. Smith)でした(*9)。ちなみにE.C.スミスが書記長に就任した1928年は、先述したように、ハーレー・ダビッドソン社がアメリカンモーターサイクル協会を実効支配するに至った年でした。
当時E.C.スミスは「アメリカンモーターサイクル協会の独裁者」でした(*9)。E.C.スミスは組織運営においてルールと規制を強調し、またアメリカ合衆国内におけるバイク市場の拡大を目指していました(*9)。アメリカ合衆国では自動車がバイクを「実用性」や「輸送用途」の面で上回っていた為、アメリカ合衆国内でバイクに乗る機会は、スポーツとレクリエーションの2領域に集中していました(*9)。
E.C.スミスは隣国カナダの競技ライダー達とのつながりを切ろうとしていました(*9)。カナダの競技ライダー達はFICMルールを好んでおり、FICMルールではイギリス製のバイクに乗ることができたからです(*9)。
1942年時点アメリカ合衆国においてバイク雑誌は『モーターサイクリスト』(Motorcyclist:バイク乗り)しかなく、アメリカンモーターサイクル協会が『モーターサイクリスト』を影響下に置いていました(*10)。『モーターサイクリスト』1943年1月号で外国製バイクの小さい広告が掲載される予定でした(*10)。E.C.スミスがその担当編集者に電話して、「外国産バイクの宣伝は自国産バイク産業に危害を与えることになる」と圧力をかけました(*10)。ちなみに1945年『モーターサイクリスト』はアメリカンモーターサイクル協会の影響下から抜け、独立系の雑誌に変わりました(*10)。
世界恐慌(1929年~1930年代後半)が起こる頃には、自国(アメリカ合衆国)バイクメーカーは3社だけになっていました(*11)。それ以前は200社以上のバイクメーカーがアメリカ合衆国にありました(*6)。
3社とはハーレー・ダビッドソン社、インディアン(Indian)社、エクセルシオール・ヘンダーソン(Excelsior-Henderson)社のことでした(*11)。1931年エクセルシオール・ヘンダーソン社が倒産してしまい(*6)、自国のバイクメーカーはハーレー・ダビッドソン社とインディアン社の2つだけになってしまいました(*11)。さらに1947年にはインディアン社が倒産してしまい、以降ハーレー・ダビッドソン社だけが自国バイクメーカーとして残ることになりました(*12)。
E.C.スミスは1946年にアメリカンモーターサイクル協会内で「競技委員会」(Competition Committee)を立ち上げました(*10)。E.C.スミスが自ら競技委員会の委員長となり、年間イベントのスケジュール考案の準備をスタッフらとともに整えました(*10)。
同年(1946年)10月、競技委員会の会議が開催されました(*10)。委員会のメンバーはハーレー・ダビッドソン社の販売店オーナーらのみで構成されていました(*10)。競技委員会はレース競技の新ルールを制定しました(*10)。その新ルールでは「イギリス製バイク」の排除が図られました(*10)。しかしその措置には批判の声が上がりました(*10)。
第2次世界大戦中、イギリスでは国内の市場が機能しにくくなった為、イギリスのバイクメーカーはアメリカ合衆国への輸出に注力していきました(*12)。イギリス製のバイクは性能が良く、評判が良かったのです(*12)。
実際、当時アメリカ合衆国のバイク乗りの間では、国内産よりも外国産バイクの方が需要が高かったです(*10)。特にイングランド産のホットロッド・ロードスター(hot-rod roadsters)の人気が高かったです(*10)。
上記の活動から、E.C.スミスが外国製バイク特にイギリス製バイクを敵対視していたことがわかります。またハーレー・ダビッドソン社としてもイギリス製バイクは無視できない存在だったのです。
一方、イギリスのバイクメーカー側は対抗していきました。カリフォルニア州を拠点にする「イギリスモーターサイクル販売業者協会」(British Motorcycle Dealers Association)は1946年に緊急会議を開催、全米規模の組織化が満場一致で決定されました(*10)。
<引用・参考文献>
*1 『Outlaws: Inside the Hell’s Angel Biker Wars』(Tony Thompson,2012,Hodder Paperback), p366
*2 『Outlaws: Inside the Hell’s Angel Biker Wars』, p367
*3 『Outlaws: Inside the Hell’s Angel Biker Wars』, p368
*4 『The Bandido Massacre』(Peter Edwards,2012, HarperCollins Publishers),p50
*5 『アウトロー・バイカー伝説』(ビル・オズガービー、2008年、スタジオタッククリエイティブ),p12-13
*6 『アウトロー・バイカー伝説』,p19
*7 『The Brotherhoods: Inside the Outlaw Motorcycle Clubs』(Arthur Veno,2009,Allen & Unwin),p23-24
*8 『Biker Gangs and Transnational Organized Crime Second Edition』(Thomas Barker,2014,Routledge),p35
*9『Terry the Tramp: The Life and Dangerous Times of a One Percenter』(K. Randall Ball,2022,5-Ball Inc),p11
*10 『Terry the Tramp: The Life and Dangerous Times of a One Percenter』,p12-13
*11 『Terry the Tramp: The Life and Dangerous Times of a One Percenter』,p10
*12 『アウトロー・バイカー伝説』,p25
コメント