関東の博徒業界において縄張りは「火場所(ひばしょ)」もしくは「費場所(ひばしょ)」と呼ばれました(*1)。また博徒は縄張りを「死守(しもり)」とも呼びました(*2)。博徒業界の縄張りとは「賭場開帳権を行使できる地理的範囲」を意味していました(*3)。
博徒組織「小金井一家」は東京の中央線沿線一帯、新宿、川崎などを縄張りとしていました(*4)。つまり博徒業界の慣習では、小金井一家のみが東京の中央線沿線一帯、新宿、川崎での賭場開帳権を有することになっていました。
常設の賭場は「常盆(じょうぼん)」と呼ばれました(*5)。常盆には、1年365日開帳した賭場もあれば、特定の数が付く日(「三八」の場合、3、8、13、18、23、28日の月6回)に開帳した賭場もありました(*5)。
「出会費場所」という言葉がありました。藤田五郎によれば、出会費場所とは「一町、一村、一字に於て、一家と他家との費場の競合する状態」を指しました(*6)。同一地域において複数の博徒組織が縄張りを持つ状態が、出会費場所だったのです。
出会費場所の形態としては「日分け」「処分」「寺分」などがありました(*6)。「処分」形態の出会費場所では、同一地域内で2組織の縄張りは地理的に分かれているものの、隣接していました(*6)。
「寺分」形態の出会費場所は、縄張りの主が元々不明確で、最初に賭場を開帳した組織が六分(6%)のテラ銭をとり、二番手以降の組織が四分(4%)のテラ銭をとるという決まりが敷かれた場所のことでした(*7)。テラ銭とは、博徒組織(胴元)が客からとる手数料のことで、相場は五分(5%)でした(*8)。
寺分形態の出会費場所において、二番手以降の組織が複数だった場合、四分のテラ銭は等分されました(*7)。この等分は「テラ分け」と呼ばれました(*7)。二番手以降の場合、該当組織は個別に賭場を開帳したのではなく、共同で賭場を開帳したと考えられます。寺分形態の出会費場所では、最初に賭場を開帳した組織(六分のテラ銭をとれる組織)が優遇される仕組みがとられていたのです。寺分形態の出会費場所は、別名「かけつけ場所」と呼ばれました(*7)。
一方、テキヤ業界において縄張りは「庭場(にわば)」と呼ばれました(*9)。庭場の概念は「露店配置(ショバ割り)の裁量権を保有する場所」でした(*9)。庭場内の最高権力者(地元テキヤ組織の首領)が「庭主(にわぬし)」でした(*10)。
テキヤ組織において「分家」として独立した際、元の組織から庭場の一部が譲渡されました(*11)。しかし「一家」として独立した場合、元の組織から庭場は譲渡されませんでした(*11)。
<引用・参考文献>
*1 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p63
*2 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、1998年、講談社+α文庫),p165
*3 『現代ヤクザ大事典』, p61
*4 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p14
*5 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p136
*6 『実録 乱世喧嘩状』(藤田五郎、1976年、青樹社),p19
*7 『やくざ事典』(井出英雅、1971年、雄山閣出版),p134-135
*8 『現代ヤクザ大事典』, p195
*9 『ヤクザ1000人に会いました!』(鈴木智彦、2012年、宝島SUGOI文庫),p183-184
*10 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』, p154-157
*11 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p72-73
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