ブラジルでは「ジョゴ・ド・ビチョ」(Jogo do Bicho)という動物くじが流行っていました(*1)。ジョゴ・ド・ビチョは違法でした(*1)。リオ・デ・ジャネイロにある動物園オーナーのジョアン・バティスタ(João Batista)が1888年、ジョゴ・ド・ビチョを作り出しました(*2)。
1950年代のブラジルでは強力なアウトロー組織が、違法領域においてジョゴ・ド・ビチョの事業化を始め、莫大な収益を上げました(*1)。このアウトロー組織(ジョゴ・ド・ビチョの胴元組織)は合法的な企業を通して、ジョゴ・ド・ビチョ事業による収益を「洗浄」しました(*1)。1980年代の資金洗浄方法の1つとして、リオ・デ・ジャネイロのカーニバルを利用する方法がありました(*1)。ジョゴ・ド・ビチョの胴元組織のボス達は「ビシェイロス」(bicheiros)と呼ばれました(*1)。
日本の江戸時代において宝くじは「富突(とみつき)」と呼ばれていました(*3)。富突の別名としては「富くじ」「百人講」「千部会」などがありました(*3)。抽選札は「富札」と呼ばれました(*3)。
1692年(元禄五年)「とみつき講」禁令が出ました(*4)。1692年以降、富突は違法となりました。しかし1730年(享保十五年)5月、江戸幕府は、京都仁和寺開催の富突を公認しました(*5)。この富突におい開催場所は江戸の護国寺だったといわれています(*5)。幕府公認の富突は「御免富」と呼ばれました(*5)。
享和(1801~1804年)~文政(1818~1831年)にかけて「蔭富(かげとみ)」という賭博が行われました(*6)。蔭富(影富)とは「幕府非公認の富突」を指しました(*7)。蔭富は違法宝くじだったのです。1842年(天保十三年)江戸幕府は、全ての富突興行を禁止しました(*6)。
台湾のアウトロー組織「天道盟」は、香港の宝くじ「六合彩」を利用した賭博を手掛けていました(*8)。
アメリカ合衆国では「ナンバーズ・ゲーム」(numbers games)というスピードくじがありました(*9)。ナンバーズ・ゲームは違法賭博でした(*10)。
ナンバーズ・ゲームにおいて客はチケットを買って「1,000の3桁数字(000~999)」から1つの3桁数字を選びました(*11)。当選した場合(千分の一)、配当率は600倍でした(*11)。1セントのチケットで当選した場合、6ドルが配当されました(1ドル=100セント)(*11)。客は「ポリシー・ショップ」(policy shops)と呼ばれる場所でチケットを買いました(*11)。アメリカ合衆国では1880年代からナンバーズ・ゲームが行われてきました(*11)。
<引用・参考文献>
*1 InSight Crimeサイト「Brazil Profile」(InSight Crime編集部,2023年11月24日)
https://insightcrime.org/brazil-organized-crime-news/brazil-profile
*2 InSight Crimeサイト「Corruption Case Exposes Influence of Brazilian Animal Game Boss」(Christopher Looft,2012年7月19日)
*3 『日本賭博史』(紀田順一郎、2025年、ちくま学芸文庫),p98
*4 『日本賭博史』,p101
*5 『日本賭博史』,p103
*6 『日本賭博史』,p109
*7 『江戸のギャンブル』(有澤真理、2017年、歴史新書、洋泉社),p106-107
*8 『中国「黒社会」の掟-チャイナマフィア』(溝口敦、2006年、講談社+α文庫), p140-141,166
*9 『FOR BEGINNERS シリーズ マフィア』(安田雅企、1994年、現代書館),p87
*10 『Gambling Cultures Studies in history and interpretation』「THE ROLE OF THE STATE IN THE EXPANSION AND GROWTH OF COMMERCIAL GAMBLING IN THE UNITED STATES」(Vicki Abt,2014,Routledge),p182
*11 『The Mafia Encyclopedia, Third Edition』(Carl Sifakis,2005,Facts On File),p335-336
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