中山道と上州の博徒組織

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 中山道は江戸時代の五街道の1つで、日本橋を起点とし、板橋宿(第一宿)から大津宿(第六十九宿)を結んでいました(*1)。中山道は上州(群馬県)も通りました(*1)。

 上州の中山道には新町(第十一宿)→倉賀野(第十二宿)→高崎(第十三宿)→板鼻(第十四宿)→安中(第十五宿)→松井田(第十六宿)→坂本(第十七宿)の宿場が設けられていました(*1)。

 新町、倉賀野、高崎の3つの宿は現在の高崎市に位置しています。板鼻、安中、松井田、坂本の4つの宿は現在の安中市に位置しています。高崎市は群馬県中南部、安中市は群馬県南西部に位置しています。

 中山道は東海道に比べて、宿泊代が安かったです(*1)。また中山道は大河川の下流を渡らなかったので、川留めの心配がなかったです(*1)。

 新町(第十一宿)の前は、武州の本庄宿(第十宿)でした(*1)。坂本(第十七宿)の次は、信州の軽井沢宿(第十八宿)でした(*1)。坂本宿から軽井沢宿の間には碓氷峠があり、そこには関所もありました(*1)。この碓氷関所は、木曽の福島関所と同じく、中山道において重要な関所でした(*1)。

 博徒組織「新井一家」は明治時代(1868~1912年)の末期、松井田、坂本などに縄張りを持っていました(*2)。新井一家は碓氷峠を越えた信州側にも縄張りを持っていたといわれています(*2)。

 信五郎という者が新井一家を結成しました(*2)。信五郎は後に、信州小県郡依田小野山に移り、「小野山の信五郎」と称したといわれています(*2)。信五郎は元々、松井田伝馬継場の部屋頭を務めていました(*2)。継場とは、人馬を取り替えるところでした。

 当時、宿場には雲助(輸送労働者)がおり、宿場間の輸送を担っていました(*3)。各宿場は浮浪者を「雲助」として利用していました(*3)。雲助は人足部屋で暮らしていました(*21)。人足部屋では部屋頭が雲助を管理しました(*3)。その人足部屋では雲助を対象とする賭場が開帳されていました(*3)。

 そして人足部屋は概ね、先述の継場の裏にありました(*3)。新井一家の結成者・信五郎は、元々「松井田伝馬継場の部屋頭」でした。この松井田伝馬継場には、おそらく人足部屋も含まれており、信五郎は人足部屋の部屋頭だったと考えられます。

 山田城之助が新井一家の二代目を継承しました(*2)。山田城之助は1830年(天保元年)に生まれました(*2)。山田城之助(新井一家総長)は1884年(明治十七年)から、藩閥政府打倒運動に加わり、群馬警察に追われる身となりました(*2)。翌1885年(明治十八年)6月30日、山田城之助は妾と土塩の家で過ごしていた時、巡査刑事に襲われ、逃亡するものの、その途中で殺されました(*2)。

 山田城之助が藩閥政府打倒運動に加わった1884年、博徒組織にとって大きな出来事がありました。1884年1月4日「賭博犯処罰規則」が布告され、この賭博犯処罰規則において賭博の非現行犯逮捕が可能となりました(*4)。

 それ以前、賭博の逮捕は「現行」のみでした。1880年(明治十三年)「刑法」が公布され、1882年(明治十五年)に施行されました(*4)。この刑法では「賭博は現行犯のみ逮捕」という内容が記載されていました(*4)。この刑法では「現行」が賭博犯の逮捕要件だったのです。

 またその前の1874年(明治七年)司法省は「賭博は現行犯のみ逮捕」という指令を出していました(*5)。

 1884年以前において賭博犯は現行のみでしか逮捕されませんでしたが、賭博犯処罰規則の布告後は賭博犯は非現行でも逮捕されることになったのです。博徒組織にとっては逆風が吹いたのです。

 戦前(1941年以前)、博徒組織「上州共和一家」が結成されました(*6)。結成時の上州共和一家は、10の博徒組織で構成されていました(*6)。そのうちの1つが新井一家でした(*7)。残りの9団体とは、「福島一家」「田島一家」「山名一家」「大和屋一家」「浜川一家」「金子一家」「冷水一家」「大新田一家」「大類一家」のことでした(*7)。

 武田愛之助(福島一家)が上州共和一家結成を主導しました(*7) (*8)。武田愛之助は上州共和一家の初代となり、荒館亀吉が二代目を継承しました(*8)。荒館亀吉は1982年に死去しました(*8)。今井弘が三代目を継ぎました(*8)。

 福島一家は旧中川村などに縄張りを持っていました(*9)。田島一家は甘楽郡西部を縄張りにしていました(*9)。山名一家は高崎在の山名村を拠点に活動していました(*9)。浜川一家は浜川村(浜川村は高崎市に編入された)を拠点に活動していました(*9)。大類一家は大類村などに縄張りを持っていました(*9)。

 中山道の南には下仁田道が通っていました(*1)。下仁田道沿いには富岡、下仁田がありました(*1)。下仁田道から信州に行くことができました(*1)。博徒組織「大和田一家」は下仁田町などを縄張りにしていました(*9)。明治時代の末、大和田一家は120人の子分を擁していました(*9)。

 中山道の倉賀野(第十二宿)は、日光例幣使街道の始点でもありました(*10)。日光例幣使街道は、倉賀野と今市を結んでおり、今市で日光道に合流しました(*10)。上州は日光例幣使街道にて日光をもつながっていたのでした。

 倉賀野には河岸(河港)がありました。倉賀野河岸は鳥川の左岸にあり、鳥川は五料という所で利根川に合流しました(*11)。その五料から約12km遡ったところに倉賀野河岸が位置していました(*11)。倉賀野河岸は、江戸発の利根川最上流河岸でした(*11)。倉賀野河岸は江戸発の利根川水運の終点だったのです。倉賀野河岸では西上州、信州の諸大名、旗本領の年貢米が船積みされ、一方江戸発の船からは塩や日用品が陸揚げされました(*11)。

 中山道の高崎(第十三宿)は三国街道の始点でもありました(*12)。三国街道は高崎を越後の長岡を結んでいました(*12)。三国街道沿いには金古、渋川などがありました(*12)。

 上州の前橋には中山道は通っていませんでした。博徒組織「大前田一家」では、大前田英五郎が1874年(明治七年)2月26日に死去した後、十数人(おそらく貸元級の者達)が各々「大前田一家の分家」を名乗り、多くの賭場を持ちました (*13)(*14)。博徒組織業界では、貸元達への縄張り分轄は「場所分け」と呼ばれました(*15)。博徒組織では初代の引退時、次期体制を踏まえて「特定の者に跡目を継承させる」もしくは「誰にも跡目を継承させず、貸元達に縄張りを分け与える(場所分け)」という方法がとられました(*15)。大前田一家の場合、大前田英五郎の死去後、場所分けが行われたと考えられます。

 大前田一家は前橋一帯、前橋以東の佐波郡、新田郡、太田、山田郡に縄張りを持っていました(*13)。その中の縄張りには、伊勢崎や桐生の縄張りも含まれていました(*13)。

 東京の博徒組織「土支田一家」でも1921年(大正十年)、三代目総長・篠信太郎が場所分けをしました(*16)。その場所分けにより「練馬町中村橋」が佐久間浦吉に、「練馬町」が中村新太郎に、「成増」が佐久間長太郎に、「板橋」が松下助次郎に、「所沢」が内野新蔵に、「塔玉膝打村」(原文ママ。筆者註:おそらく「埼玉膝折村」の誤り)が阿部浩に、「埼玉志木町」が小山亀吉に分与されました(*16)。1921年時の土支田一家は練馬町中村橋、練馬町、成増、板橋、所沢、埼玉膝折村、埼玉志木町を縄張りとしていたと考えられます。篠信太郎はその後も三代目総長を務めていき、1935年頃に総長職を退き、隠居しました(*16)。

 篠信太郎は初代ではなく、また引退(もしくは隠居)時でもない時に、場所分けをしたのでした。先述したように、通常の場所分けは「初代の引退時」に行われていました。

 博徒組織「川田一家」は利根郡一帯(特に利根川の西側一帯)に縄張りを持っていました(*17)。

 上州では赤城山(上州北東部)の高市(たかまち)にて賭場が開帳されました(*18)。

 高市とは、寺社(寺院・神社)の縁日や祭礼に開催された仮設露店市のことでした(*19)。高市のほとんどは定期門前市(1年ごともしくは1カ月ごと開催)でした(*19)。地元のテキヤ(露店商)組織の親分(別名:庭主) (*20)が、高市の露店配置を仕切りました(*19)。

 露店配置(場所割り)の裁量権は庭主に帰属しました(*20)。テキヤ業界において「露店配置の裁量権を持つ場所」は「庭場」と呼ばれました(*21)。庭場とはテキヤ業界における縄張りのことでした(*21)。

 高市には人が沢山集まりましたので、博徒組織にとって賭場開帳の絶好の機会でした。高市は「博徒の弗(ドル)箱」と呼ばれていました(*18)。

<引用・参考文献>

*1 『地図と読む 日本の街道』「中山道」(編集部、2025年、地図情報センター), p106-112

*2 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社), p418-420

*3 『生活史叢書4 やくざの生活』(田村栄太郎、1994年、雄山閣), p55-56,60

*4 『<ものと人間の文化史 40-Ⅲ> 賭博 Ⅲ』(増川宏一、1983年、法政大学出版局), p271-272,297-302

*5 『<ものと人間の文化史 40-Ⅲ> 賭博 Ⅲ』,p264-265

*6 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社),p38

*7 『生活史叢書4 やくざの生活』, p131-132

*8 『公安大要覧』, p212

*9 『公安大要覧』, p421-422

*10 『地図と読む 日本の街道』「日光例幣使街道」(金田章裕、2025年、地図情報センター), p104-105

*11 『<上毛文庫> 群馬の水運史』「四章 五節 倉賀野河岸」(大山正、1987年、上毛新聞社), p81-82

*12 『地図と読む 日本の街道』「三国街道・清水越」(編集部、2025年、地図情報センター), p142-143

*13 『公安大要覧』,p414-415

*14 『<ものと人間の文化史 40-Ⅲ> 賭博 Ⅲ』,p269

*15 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店),p268-269

*16 『任俠百年史物語Ⅰ 関東稲妻親分衆』(藤田五郎、1980年、笠倉出版社),p187-188,193,200

*17 『公安大要覧』, p424

*18 『生活史叢書4 やくざの生活』, p84-85

*19 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書),p44-47

*20『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫),p157

*21 『ヤクザ1000人に会いました!』(鈴木智彦、2012年、宝島SUGOI文庫),p183-184

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