府中と小金井一家

  • URLをコピーしました!

 博徒組織「小金井一家」初代の小金井小次郎(本名:関小次郎)は、元々博徒組織「藤屋一家」の構成員でした(*1)。市村万吉(通称:藤屋の万吉)が藤屋一家の創設者でした(*1)。藤屋一家は府中を拠点に、八王子、甲府、江戸、神奈川まで進出していました(*1)。藤屋の万吉は1800年(寛政十二年)、府中で生まれました(*1)。藤屋の万吉は出身地と、自身の組織が府中を拠点に活動していたこともあったのか、「府中の万吉」とも呼ばれていました(*1)。小金井小次郎は1818年(文政元年)、小金井村で生まれました(*1)。

 府中は甲州街道の宿場町の一つでした(*2)。甲州街道は日本橋を起点とし、内藤新宿から下諏訪まで結んでいました(*2)。甲州街道上の宿場町数は45でした(*2)。府中の次の宿場町が日野でした(*2)。府中と日野の間には多摩川が流れています。

 宿場町の府中には「平旅籠」(一般の宿泊施設)と「飯盛旅籠」(飯盛女が置かれている宿泊施設)がありました(*3)。飯盛女(めしもりおんな)とは、文字通り「飯を盛る女」という位置づけの者でしたが、実態は宿場町の私娼でした(*4)。

 江戸幕府は指定地域内に売春施設を置き、その中での売春を認めるという対応をとっていました(*4)。公認売春街(公娼街)は「傾城町(けいせいまち)」と呼ばれました(*4)。江戸の傾城町(公認売春街)が吉原でした(*4)。吉原は元々、日本橋人形町付近にありました(*4)。1657年(明暦三年)以降、吉原(売春施設群)は日本堤に移転しました(*4)。以降、移転前の日本橋人形町付近の売春施設群は「元吉原」と呼ばれ、移転先の日本堤の売春施設群は「新吉原」と呼ばれました(*4)。吉原の娼婦は公娼だったのです。

 一方、江戸には私娼もいました。江戸の風呂屋では蒸風呂から上がった客に対し垢すりや洗髪をする湯女(ゆな)がおり、湯女の一部が売春をしていました(*5)。元吉原の営業時間は昼間で、客は主に武士でした(*5)。一方、風呂屋は昼夜営業で、買春料金は元吉原に比し安かったです(*5)。また江戸には私娼街が形成されていき、その私娼街は「岡場所(おかばしょ)」と呼ばれました(*4)。岡場所の買春料金は、吉原に比し、安かったです(*4)。江戸幕府にとって私娼は取締り対象でした(*5)。

 ゆえに飯盛女(私娼)は取り締り対象でした。しかし1777年(安永六年)府中の宿場町において飯盛旅籠が公認されました(*3)。おそらく飯盛旅籠側は表向き「飯盛女は宿泊業務をするだけで、売春はしない」ということを表明したのでしょうが、裏では飯盛旅籠は客に性的サービスを提供していたと考えられます。1777年以降の府中では、飯盛旅籠における売春が黙認されたのです。

 先述したように藤屋一家は府中を拠点とし、広域に活動していたことから、その縄張りは広かったです(*1)。博徒組織の縄張りとは「賭場開帳権を行使できる地理的範囲」を意味しました(*6)。ちなみにテキヤ(露店商)組織における縄張りは「庭場(にわば)」と呼ばれました(*6)。博徒組織の縄張りは、博徒組織間の約束により、定められていました(*7)。

 同じ組織の縄張りが、地続きしていない場合もありました。博徒組織「相の川一家」の縄張りは散在していました(*7)。初代・相の川政五郎の時代、相の川一家は信州と越後に縄張りを持っており、その割合は信州7割、越後3割でした(*7)。後に相の川一家は、上州と武州等に縄張りを持つようになりました(*7)。東京において相の川一家は東両国、下谷、浜町河岸に縄張りを持ちました(*7)。

 関東の博徒組織において縄張りは「火場所」「費場所」とも呼ばれました(*6)。昔「出会費場所」という言葉がありました。藤田五郎によれば、出会費場所とは「一町、一村、一字に於て、一家と他家との費場の競合する状態」を指しました(*8)。つまり同一地域において複数の博徒組織が縄張りを持つ状態が、出会費場所だったのです。

 出会費場所の形態としては「日分け」「処分」「寺分」などがありました(*8)。「処分」形態の出会費場所では、同一地域内で2組織の縄張りが、地理的に分かれているものの、隣接していました(*8)。

 「寺分」形態の出会費場所は、縄張りの主が元々不明確で、また複数の組織がその場所で賭場を開帳した場合、「最初に賭場を開帳した組織」がテラ銭の六分(この場合60%の意味)をとり、「二番手以降の組織」はテラ銭の四分(この場合40%の意味)をとるという決まりが敷かれた場所のことでした(*9)。テラ銭とは、賭場開帳組織が徴収する手数料のことでした(*10)。

 テラ銭の割合は五分(5%)が相場でした(*10)。テラ銭の徴収対象は、賭博によって異なりました。「胴親」対「張子」の賭博では、賭博開帳組織は「胴親」からテラ銭を徴収しました(*11)。「胴親」対「張子」の賭博としては「ちょぼいち」などがありました(*12)。一方「張子」対「張子」の賭博では、賭博開帳組織は「勝者の張子」からテラ銭を徴収しました(*11)。「張子」対「張子」の賭博としては「丁半」などがありました(*12)。

 「寺分」形態の出会費場所に関するテラ銭とは、胴親や勝者の張子から徴収するものではなく、賭場開帳による総収益のことを指していたと考えられます。

 藤屋の万吉は1864年(文久四年)、病死しました(*1)。その後、藤屋一家では「場所分け」がなされました(*1)。場所分けとは、一家の縄張りが貸元達に分け与えられることでした(*13)。貸元とは、一家のトップ(総長)から縄張りの一部を預かり、その縄張り内で賭博事業を運営・管理する者を指しました(*14)。貸元は賭場開帳による利益の一部を総長に上納しました(*14)。

 大規模な博徒組織では20人以上の貸元がいました(*14)。例えば博徒組織「上萬(上万)一家」初代・藤江万吉の時代、上萬一家には36人の貸元がいました(*15)。藤江万吉は1897年(明治三十年)5月15日に死去しました(15)。上萬一家(初代・藤江万吉の時代)は東西では両国から千葉の船橋まで、南北では江戸湾から北松戸までの地域を縄張りとしていました(*15)。

 貸元の下にいたのが代貸でした。代貸は賭場の責任者であり(*14)、警察組織の手入れの際には「貸元の身代わり」になりました(*16)。有力な貸元は4~5人の代貸を持っていました(*14)。

 また貸元が自身の縄張り内において他組織の賭場開帳を承認した場合、その他組織から収益の一部を徴収しました(*9)。その徴収金は「カスリ」と呼ばれました(*9)。カスリの額は、収益の70%もしくは60%でした(*9)。逆にいえば、他所の縄張り内で賭場を開帳する者は、収益の70%もしくは60%を、その縄張りの貸元に払いました。貸元は縄張り内における「他組織開帳の賭博収益」への徴収権を持っていたのです。

 縄張りの所有権は、貸元にはなく、また総長にもなく、一家(博徒組織)に帰属しました(*6)。

 藤屋一家では、藤屋の万吉(初代)の死去(1864年)後、場所分け(一家の縄張りが貸元達に分け与えられること)がなされました(*13)。先述の小金井小次郎は、藤屋一家の貸元の1人でした(*1)。その後、小金井小次郎は旧藤屋一家の縄張りの大部分を吸収し、小金井一家の版図を拡大させました(*1)。

 小金井小次郎は1881年(明治十四年)6月9日に死去しました(*17)。小金井小次郎の晩年、小金井一家でも場所分けがなされ、一家の縄張りは貸元達に分け与えられました(*1)。

 その後、小金井一家は総長を設けず、世話役体制をとりました(*18) 。小金井一家長老らが東京方面から1名、神奈川方面から1名を世話役に推薦し、計2名の世話役が選ばれまれした(*18)。2名の世話役は合議して、小金井一家全体を運営してきました(*18)。多摩川が境となり、多摩川以北(以東)の東京方面の世話役は「北八幡の総長」、多摩川以南(以西)の神奈川方面の世話役は「南八幡の総長」と呼ばれました(*18)。

 ある時期は平松兼三郎が北八幡総長、西村林右衛門が南八幡総長を務めていました(*18)。小金井一家の「四軒寺(しけんでら)」(小金井一家内における貸元級の稼業名)四代目貸元・田中三次は1924年(大正十三年)引退しました(*19)。「四軒寺」の貸元は元々、吉祥寺の縄張りを預かっていました(*19)。田中三次は1894年(明治二十七年)、「四軒寺」四代目を継承し、小金井一家の貸元になりました(*19)。田中三次は引退(1924年)後も、小金井一家の長老として相談役を務めました(*19)。この田中三次らが世話役に推薦したのが、平松兼三郎(北八幡総長)と西村林右衛門(南八幡総長)でした(*19)。平松兼三郎は小金井一家の「新宿」(小金井一家内における貸元級の稼業名)二代目の貸元、西村林右衛門は小金井一家の「神奈川」(小金井一家内における貸元級の稼業名)初代の貸元でした (*20)。平松兼三郎は1942年2月3日、死去しました(*21)。

 後に金子万吉(萬吉)(*20)が、東京方面と神奈川方面を再統一したといわれています(*18)。金子万吉(萬吉)は「神奈川」二代目の貸元でした(*20)。金子万吉(萬吉)は1974年4月13日、90歳で死去しました(*21)。

 以上から、昭和時代(1926~1989年)の初期ぐらいに小金井一家は再統一したと考えられます。

 小金井一家は東京方面では新宿から府中を縄張りとし(*22)、また神奈川県では川崎や鶴見を縄張りとしました(*23)。また小金井一家は府中から川崎大師にかけてのところでも縄張りを持っていました(*24)。川崎大師の正式名称は「川崎大師平間寺」です(*25)。川崎大師は江戸時代から、江戸近郊の参詣行楽地として発展してきました(*25)。

 昔の高市(たかまち)において博徒組織は賭場を開帳しており、またその賭場は黙認されていました(*26)。高市とは、社寺の祭礼や縁日における仮設露店市のことでした(*27)。神社は時を定めて、祭礼をしました(*28)。祭礼は夏が多いですが、春や秋にもありました(*28)。毎月の祭礼は「例祭」と呼ばれました(*28)。寺院は本尊のゆかりのある日に、法会(縁日)を開催しました(*28)。

 テキヤ組織の露店商らが高市に出店し、地元のテキヤ組織が高市を仕切っていました(*27)。出店露店商は地元のテキヤ組織に場所代(通称:ショバ代)を払いました(*27)。

 戸羽山瀚の調べによると、川崎大師の高市では小金井一家の勢力が賭場を開帳していました(*26)。

 府中には大國魂神社(六所大明神)があり、5月の例祭(くらやみ祭)には、近くの人々が大國魂神社に集まりました(*3)。くらやみ祭は、府中の飯盛旅籠にとって、稼ぎ時でした(*3)。

 府中では小金井一家「府中」(小金井一家内における貸元級の稼業名)貸元の勢力が活動していました(*20)。小金井一家「府中」初代貸元は市村和十郎でした(*20)。市村和十郎(市村和十)は、藤屋一家初代・藤屋の万吉(市村万吉)の次男でした(*1)。「府中」二代目貸元は渡辺万代吉、三代目は臼井喬夫、四代目は渡辺武男でした(*20)。

  1889年(明治二十二年)4月11日、甲武鉄道の新宿~立川間が開業しました(*29)。同年(1889年)8月11日、甲武鉄道の立川~八王子間が開業しました(*29)。1906年(明治三十九年) 甲武鉄道は国有化され、甲武鉄道の路線は中央本線の一部(現在のJR中央線)となりました(*29)。

 甲武鉄道は甲州街道に沿っておらず、府中を通っていませんでした。京王電気軌道が甲州街道沿いに鉄道を敷きました(*30)。1913年(大正二年)4月、京王電気軌道の笹塚~調布間が開業しました(*30)。1916年(大正五年)10月、京王電気軌道の新宿~府中間が開業しました(*30)。玉南電気鉄道が1925年(大正十四年)3月、府中~東八王子(現在の京王八王子)間を開業させました(*30)。1926年12月、京王電気軌道と玉南電気鉄道は合併しました(*30)。1927年6月、旧玉南電気鉄道の軌間の改軌が行われ、新宿~東八王子間が直通運転となりました(*30)。京王線上には小金井一家「笹塚」(小金井一家内における貸元級の稼業名)貸元の勢力、小金井一家「鳥山」(小金井一家内における貸元級の稼業名)貸元の勢力等が活動していました(*20)。

 1935年以降、軍需工場が三多摩に進出してきました(*3)。三多摩とは西多摩、南多摩、北多摩の総称です(*31)。三多摩は元々、神奈川県に属しており、1893年(明治二十六年)4月1日、東京府に編入されました(*31)。府中は北多摩郡に位置していました(*32)。

 日本製鋼所武蔵製作所、陸軍燃料廠、東芝府中工場、日本小型飛行機などが府中に設けられ、府中は一大工業地区となりました(*3)。太平洋戦争終了(1945年)後、京王線府中駅前では新興マーケット(闇市)が形成されました(*3)。また陸軍燃料廠跡には極東第五空軍司令部、在日米軍司令部が設けられました(*3)。在日米軍司令部の南門から東府中駅(京王線)手前までの平和通りの両側にはバーやビアホールがあり、そこで街娼達は営業をしていました(*3)。

 1954年4月1日、府中駅町、多磨村、西府村が合併し、府中市が誕生しました(*32)。

 2001年小金井一家の東京勢力が「住吉会」に、川崎勢力が「稲川会」に移籍したことにより、小金井一家は分裂しました(*33)。同時に小金井一家の上部団体であった「二率会」は同年(2001年)解散しました(*33)。小金井一家「府中」の勢力は住吉会に移籍したのです。当初、小金井一家の総勢力(川崎勢力も含む)が住吉会に移籍する予定でした(*33)。しかし稲川会の反発があったこともあり、川崎勢力は稲川会に行くことになりました(*33)。

 2001年以前、他団体が小金井一家の縄張りを借り、「賃料」を払い、活動していた場合がありました(*33)。貸し借りされている縄張りは「借りジマ」と呼ばれました(*34)。「関東二十日会」は、縄張りの譲渡に関して、当事者間の合意があれば認めるが、当事者間の合意がなければ認めないという対応をとっていました(*34)。関東二十日会は親睦団体で、1972年に結成されました(*35)。住吉会、稲川会、「松葉会」、「日本国粋会」、「双愛会」、二率会などが加盟していました(*35)。

 関東以北において「縄張りを保有する組織が、その後もその縄張りを保有する」という考えがありました(*34)。関東の組織トップは、稼業名とともに、縄張りも継承できたのです。

 一方、九州の場合は、「縄張りは一代限り」という慣習がありました(*34)。縄張り主組織(A)のトップ(B)が引退もしくは死去すると、組織Aは一旦その縄張りの所有権を失うのです。九州における縄張りの所有権は、組織Aではなく、個人Bに帰属するという考えがあったのです。

 関東の話に戻ります。先述したように関東の組織トップは、稼業名とともに、縄張りも継承できました。一家内においても、同様の考えの下で、縄張りが継承されていったと考えられます。関東では貸元組織(例:小金井一家「府中」の組織)が、その縄張り(例:府中市)を統治し続ける(永続的に預かり、監督する)という慣習があったと考えられます。

 原則によれば、縄張りの所有権は「一家」に帰属していました。一家側が貸元組織に縄張り返却を命じることは可能であり、貸元組織側には「返却の拒否権」はありませんでした。しかし「貸元組織側が一家側に縄張りを返却した」という事例はあまり聞きません。大規模な博徒組織の場合、一家側が貸元組織側に一定の権限を移譲することで、一家の統治体制が保たれていたと考えられます。

 「罷免権」(貸元を罷免する権利)、「任命権」(貸元に任命する権利)は総長にあったのでしょうか。

 罷免権は総長にあったと考えられます。

 博徒組織は概ね「一家」(擬制的親族集団)の形態をとっていたので、総長は貸元達と親子盃もしくは兄舎弟盃を交わしたと考えられます。「親分」(もしくは兄分)は「子分」(もしくは舎弟分)に勘当(絶縁・破門)処分を科すことができました(*36)。総長と貸元達の間で親子盃もしくは兄舎弟盃が交わされていた場合、総長は貸元達に勘当(絶縁・破門)処分を科すことができたのでした。ゆえに総長は、貸元を罷免することはできたと考えられます。

 任命権に関しては総長が持っていた訳ではなかったですが、任命において一定の影響力を持っていたと考えられます。

 関東において、貸元は引退する際、総長に引退することを報告しなければなりませんでした(*37)。その後、総長が一家内や親戚団体と協議をした結果、貸元の後継者が決められました(*37)。貸元が自身の後継者を単独で指名していたのではなく、総長らも後継者指名に関与していたのでした。

 しかし上記はあくまでも建前であり、一家内において力関係が「貸元達」>「総長」の場合、総長は貸元を罷免することができず、また総長は貸元の任命に影響力を持たなかったと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店), p10-17

*2 『地図と読む 日本の街道』「甲州道中」(編集部、2025年、地図情報センター), p122-124

*3 『花街・色街・艶な街 色街編』(上村敏彦、2008年、街と暮らし社), p115-116

*4 『フーゾクの現代史 元情報誌編集長が見た「歴史の現場」』(生駒明、2022年、清談社)

, p19-21

*5 『花街・色街・艶な街 色街編』,p14-15

*6 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p61-63

*7 『実証・日本のやくざ―正統派博徒集団の実像と虚像』(井出英雅、1973年、立風書房),p202-203

*8 『実録 乱世喧嘩状』(藤田五郎、1976年、青樹社),p19

*9 『やくざ事典』(井出英雅、1971年、雄山閣出版),p134-136

*10 『現代ヤクザ大事典』, p195

*11 『日本賭博史』(紀田順一郎、2025年、ちくま学芸文庫),p70

*12 『生活史叢書4 やくざの生活』(田村栄太郎、1994年、雄山閣),p28-32

*13 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』, p268-269

*14 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫),p193-194

*15 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社), p228

*16 『現代ヤクザ大事典』, p17

*17『公安大要覧』,p271

*18『実録 乱世喧嘩状』, p176

*19 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p29-30,71, 73,78

*20『公安大要覧』,p268-269

*21『公安大要覧』,p274

*22『関東やくざ者』(藤田五郎、1971年、徳間書店), p26

*23 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p141

*24 『親分 実録日本俠客伝①』, p112

*25 『電鉄は聖地をめざす 都市と鉄道の日本近代史』(鈴木勇一郎、2019年、講談社選書メチエ), p70

*26 『生活史叢書4 やくざの生活』, p164-165

*27 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書),p44-45

*28『生活史叢書3  てきや(香具師)の生活』(添田知道、1973年、雄山閣), p140

*29 『地図で読み解く JR中央線沿線』(監修:岡田直、文:栗原景、2020年、三才ブックス),p19,31

*30 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』(老川慶喜、2016年、中公新書), p92-93

*31 『東京都の歴史』「9章 東京の成立」(藤野敦、2021年、山川出版社),p323

*32 『東京都の歴史』「市・郡沿革表」(2021年、山川出版社),p29

*33 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社),p8-15

*34 『ヤクザ1000人に会いました!』(鈴木智彦、2012年、宝島SUGOI文庫),p184-185

*35 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』,p29-30

*36 『現代ヤクザ大事典』, p31-33

*37 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p270

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次