貸座敷の営業許可地区

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 娼妓とは「公に営業を認められた娼婦(公娼)」のことでした(*1)。1872年(明治五年)10月2日付けの太政官(だじょうかん)布告により、人身売買は禁止されました(*2)。この太政官布告で、名目上、娼妓は解放されました(*2)。

 公娼の対義語は私娼でした。

 以降、娼妓は妓楼(娼妓を抱えて客に遊興させる店)主から部屋を借りて、自ら営業をする形で対応していきました(*2)。この形式の妓楼は「貸座敷」と呼ばれました(*1)。

 貸座敷の営業許可地区は「遊廓」と呼ばれました(*1)。廓とは「一定区画をなした地域」を指しました(*3)。遊廓とは公認(合法的)売春地区のことだったのです。

 1617年(元和三年)、総奉行・本多正信らの賛同の下、江戸幕府は江戸における遊廓設置を認可しました(*3)。翌1618年(元和四年)11月、江戸の遊廓が中央区日本橋人形町2、3丁目、浪花町、富沢町にて開業しました(*3)。その遊廓は、葭(よし)が生い茂り、じめじめしたところだったところから、「葭原」と記されました(*3)。後に葭原は「吉原」と書かれるようになりました(*3)。江戸では吉原(江戸の遊廓)以外の売春は禁じられました(*3)。吉原の遊廓は1657年(明暦三年)以降、現在の台東区千束四丁目に移転しました(*3)。1657年以前の吉原遊郭(中央区日本橋人形町2、3丁目、浪花町、富沢町)は「元吉原」と呼ばれました(*3)。一方、1657年以降の吉原遊郭(台東区千束四丁目)は「新吉原」と呼ばれました(*3)。

 五街道の最初の宿場町にも売春地帯がありました。五街道とは東海道、中山道、日光道中(街道)、奥州道中(街道)、甲州道中(街道)のことでした(*4)。東海道の最初の宿場町が品川、中山道の最初の宿場町が板橋、日光道中と奥州道中の最初の宿場町が千住、甲州道中の最初の宿場町が内藤新宿でした(*5)。品川、板橋、千住、内藤新宿の4つの宿場町には「飯盛旅籠屋」という宿泊施設が営業しており、その飯盛旅籠屋には「飯盛女(めしもりおんな)」と呼ばれた娼婦がいました(*5)。

 江戸幕府は品川、板橋、千住、内藤新宿の飯盛旅籠屋群の営業を公認せず、黙認という形で対応しました(*5)。江戸幕府は飯盛旅籠屋の飯盛女を「食売女」として捉え、1718年(享保三年)、江戸十里四方の道中筋においては、旅籠屋一軒における「食売女の定員」を2人とする命令を出しました(*5)。その後、江戸幕府は1764年(明和元年)8月、品川、板橋、千住に対し、食売女(実態は飯盛女=娼婦)の増員を認可しました(*5)。この認可により品川の食売女の定員は500人、板橋と千住の食売女の定員は150人となりました(*5)。

 また江戸幕府は1772年(安永元年)、内藤新宿に対しても食売女の増員を認可しました(*5)。この認可により内藤新宿の食売女の定員は150人となりました(*5)。

 江戸時代の品川、板橋、千住、内藤新宿は「遊廓」(公認売春地区)ではなかったのですが、準公認の売春地帯だったのです(*5)。

 品川の飯盛旅籠屋の客層は寺の僧侶が2割、7割方が三田・薩摩屋敷の藩士でした(*5)。千住の客層は近在の農民でした(*5)。板橋の客層としては農民がいて、そして博奕打ちもいました(*5)。博奕打ちとは「博徒組織の構成員」もしくは「博奕(賭博)で生計を立てている者」を指しました(*6)。内藤新宿も主な客層は農民でした(*5)。

 五街道全ての起点は日本橋でした(*7)。五街道の街道網の整備は1601年(慶長六年)から始まりました(*7)。道中奉行が五街道を管轄していました(*4)。

 明治時代に品川、板橋、千住、新宿は新吉原、根津とともに遊廓(公認売春地区)に指定されました(*8)。品川、板橋、千住、新宿の売春地帯は明治時代、遊廓に昇格したのでした。

 根津の「遊廓」は1869年(明治二年)開業しました。東京府は1869年4月25日、根津に遊廓開設許可を出しました(*9)。根津には江戸時代から売春宿群が根津神社の門前にあり、その売春宿群は「岡場所」でした(*9)。岡場所とは「非公認の売春宿群」(私娼窟)のことでした(*1)。根津の私娼窟は1869年に「遊廓」(公認売春地区)に昇格したのでした。

 江戸の市中では私娼窟が社寺(神社や寺)の門前に形成されました(*10)。谷中天王寺、上野寛永寺、千駄木世尊院、音羽護国寺などの門前にも私娼窟がありました(*10)。森まゆみは「なぜ寺社門前かといえば、当時、日本には公共地(パブリックスペース)または公園といったものはなく、神社仏閣が、こうした人々の広場、そして遊楽の地となり、これに詣でることがリクレーションであり、境内の花や木を眺めるついでに、門前の茶屋に上って食べたり休んだりするうちに、そこに売笑する女たちが現れたのである」と述べています(*10)。

 根津の遊廓は1888年(明治二十一年)、深川洲崎(ふかがわすさき)に移転しました(*11)。移転当時、清と虎という兄弟が深川洲崎遊廓の親分でした(*12)。

 この6つの遊廓には「遊廓賦金」という税金が課されました(*13)。遊廓賦金は娼妓(公娼)と貸座敷の両方に課されました(*13)。

 1887年(明治二十年)4月以前、娼妓は「稼ぎ高の7%」を遊廓賦金として納めなければなりませんでした(*13)。しかし1887年(明治二十年)5月以降、娼妓への遊廓賦金は四等に分かれました(*13)。「玉代70銭以上の娼妓」が一等に該当し、一等の遊廓賦金は3円でした(*13)。玉代とは「客が娼婦に支払う金」のことでした(*14)。「玉代50銭以上の娼妓」が二等に該当し、二等の遊廓賦金は2円でした(*13)。「玉代30銭以上の娼妓」が三等に該当し、三等の遊廓賦金は1円でした(*13)。「玉代30銭未満の娼妓」が四等に該当し、四等の遊廓賦金は50銭でした(*13)。1円は銭に直すと「100銭」になりました。

 ちなみに当時教師の月給は5円程度でした(*13)。米10kgの価格が46銭、床屋の散髪代が4銭でした(*13)。

 1887年(明治二十年)4月以前、貸座敷の遊廓賦金は「売上高の10%」でした(*13)。1887年(明治二十年)5月以降、貸座敷への遊廓賦金も四等に分かれました(*13)。「建坪250坪以上の貸座敷」が一等に該当し、一等の遊廓賦金は1坪あたり10銭(1カ月)でした(*13)。「建坪200坪以上の貸座敷」が二等に該当し、二等の遊廓賦金は1坪あたり25銭(1カ月)でした(*13)。「建坪100坪以上の貸座敷」が三等に該当し、三等の遊廓賦金は1坪あたり1円(1カ月)でした(*13)。「建坪100坪以下の貸座敷」が四等に該当し、四等の遊廓賦金は1坪あたり50銭(1カ月)でした(*13)。

 ちなみに当時銀座の地価は坪50円(三愛付近)でした(*13)。

 地方にも遊廓がありました。潮来(茨城県)では河岸に遊廓がありました(*15)。河岸(かし)は「川の港」のことでした(*16)。銚子(千葉県)の河岸でも本城・松岸に遊廓がありました(*15)。潮来、銚子ともに利根川流域にあり、利根川水運で栄えた街といえました。

<引用・参考文献>

*1 『花街 遊興空間の近代』「花街関連用語集」(加藤政洋、2024年、講談社学術文庫), p219-221

*2 『洲崎遊廓物語』(岡崎柾男、1988年、青蛙房), p35

*3 『洲崎遊廓物語』, p178-181

*4 『地図と読む 日本の街道』「近世の街道」(金田章裕、2025年、地図情報センター),p80

*5 『洲崎遊廓物語』, p186-189

*6 『やくざ事典』(井出英雅、1971年、雄山閣出版),p55

*7 『地図と読む 日本の街道』「東海道」(金田章裕、2025年、地図情報センター),p84

*8 『花街・色街・艶な街 色街編』(上村敏彦、2008年、街と暮らし社),p19

*9  『不思議の町 根津-ひっそりした都市空間』(森まゆみ、1992年、山手書房新社),p55-63

*10  『不思議の町 根津-ひっそりした都市空間』,p36

*11 『深川狭斜史』(野澤一郎、1934年、雲峯閣書林),p52-53

*12 『深川狭斜史』,p122

*13 『洲崎遊廓物語』, p193-194

*14 『洲崎遊廓物語』, p15

*15 『河岸に生きる人びと:利根川水運の社会史』(川名登、1982年、平凡社),p156-159

*16 『河岸に生きる人びと:利根川水運の社会史』,p10

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