六本木と日比谷線、そして六本木のヤクザ組織

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 六本木(港区)は、東京都で有数の歓楽街です。六本木が歓楽街と化す契機になったのが、営団地下鉄(現在の東京メトロ)日比谷線の六本木駅開設(1966年)でした(*1)。1966年以前の六本木において最寄り駅は渋谷で、バスもしくはタクシーを交通手段として渋谷に行きました(*1)。

 営団地下鉄日比谷線は、1956年の「都市交通審議会答申第1号のルート」(北千住~中目黒)を基に作られました(*2)。日比谷線は1961年3月28日、まず南千住~仲御徒町間が開業しました(*2)。翌1962年5月31日、日比谷線は仲御徒町~人形町間、南千住~北千住間が延伸開業しました(*2)。日比谷線の開業路線は、北千住~人形町となったのでした。同時にこの時(1962年5月31日)、日比谷線と東武鉄道伊勢崎線の相互直通運転(相互乗り入れ)が始まりました(*2)。日比谷線は、営団地下鉄が初めて相互直通運転を実施した路線でした(*2)。当時、伊勢崎線内の相互直通運転区間は北千住~北越谷間でした(*2)。北越谷駅から人形町駅まで乗り換えなしに移動することが可能になったのです。

 日比谷線の軌間(線路幅)は1,067mmです(*2)。

 1964年8月29日、日比谷線は北千住~中目黒間の全線運転が始まり、同時に東京急行電鉄東横線との相互直通運転も始まりました(*2)。当時、東横線内の相互直通運転区間は中目黒~日吉間でした(*2)。ちなみに2013年、東京メトロ副都心線と東横線の相互直通運転が開始することに伴い、日比谷線と東横線の相互直通運転は廃止されました(*2)。

 先述したように日比谷線の六本木駅は1966年に開設されました。日比谷線(北千住~中目黒)の全線運転開始(1964年)後に、六本木駅は誕生したのです。1966年以降、六本木は日比谷線により東京都内に加えて、埼玉県や神奈川県からも鉄道で直接アクセスできる場所になっていったのです。

 六本木の位置する港区は、1947年3月15日、芝区・麻布区・赤坂区の合併により誕生しました(*3)。六本木は麻布区内にありました。

 芝区の芝浦には明治時代(1868~1912年)、花街(かがい)が形成されました(*4)。花街とは「芸妓(げいぎ)の営業地区」のことでした(*5)。芸妓は、いわば芸者のことで、歌、舞踊、三味線などの芸を宴席で行いました(*6)。いわば花街とは昔の歓楽街でした。その芸妓は「置屋」(芸妓屋)に属していました(*6)。置屋は芸妓を料理屋、待合茶屋、貸席、旅館などに派遣しました(*6)。花街には「芸妓の派遣元(置屋)」と「芸妓の派遣先(料理屋、待合茶屋など)」があったのです。また花街には「検番」があり、この検番は芸妓の「派遣元」と「派遣先」を仲介し、芸妓の派遣、花代(時間制の遊興料金)の清算などを行っていまいした(*6)。置屋、料理屋(もしくは待合茶屋)の営業許可地区は「二業地」と呼ばれました(*6)。一方、置屋、料理屋、待合茶屋の営業許可地区は「三業地」と呼ばれました(*6)。芝浦の花街は明治時代に三業地になりました(*4)。

 麻布区の麻布十番にも花街がありました(*7)。1913年(大正二年)10月15日、麻布十番の三業地開設が許可されました(*7)。同年(1913年)、11月3日、待合茶屋2軒、芸妓屋(置屋)7軒が麻布十番で営業を始めました(*7)。

 赤坂区の赤坂には明治時代(1868~1912年)、花街が形成されました(*8)。霞ヶ関一帯が官庁街となっていく過程で、政界及び財界人が新橋の花街とともに、赤坂の花街を利用するようになりました(*8)。また陸軍施設が赤坂の近くにあったことから、陸軍将校クラスの者達が赤坂の花街をよく利用したと考えられています(*8)。

 花街は莫大な利益を生む産業であった為、「土地開発の手段」としても利用されました(*5)。

 以上から、港区には昔から歓楽街が複数形成されていたことが分かります。しかし六本木に関しては花街は形成されませんでした。また遊廓(公認売春地区)(*6)や非公認の売春宿群(私娼窟)も六本木にはありませんでした。1966年以前の六本木では洒落たレストランや喫茶店がある程度でした(*1)。

 戦前(1941年以前)、芝区の芝浦一帯(*9)、芝(現在の港区高輪、三田、白金など)(*10)は博徒組織「住吉一家」の縄張りでした。博徒組織における縄張りとは「賭場開帳権を行使できる地理的範囲」を指しました(*11)。1895年(明治二十八年)のある日、喧嘩から博徒組織「落合一家」構成員が住吉一家構成員を殺害する事件が起きました(*12)。両団体は和解し、その際に、落合一家は芝の縄張り(古川橋、三の橋、四の橋より海側)を住吉一家に譲渡しました(*12)。住吉一家の芝の縄張りは、元々落合一家のものだったのです。

 麻布区に関しては、住吉一家が麻布を縄張りとしていました(*10)。また落合一家も1896年(明治二十九年)麻布の桜田町を縄張りとしていました(*13)。また六本木(麻布区)は、落合一家の縄張りだったとする資料があります(*14)。麻布区では住吉一家と落合一家の2団体が縄張りを持っていたと考えられます。博徒業界では、縄張りの主が元々不明確で、また複数の組織がその場所で賭場を開帳した場合、「最初に賭場を開帳した組織」がテラ銭の六分(この場合60%の意味)をとり、「二番手以降の組織」はテラ銭の四分(この場合40%の意味)をとるという決まりがあり、その場所は「かけつけ場所」と呼ばれました(*15)。テラ銭とは、賭場開帳者(博徒組織)が客から徴収する手数料のことでした(*16)。1966年以降、歓楽街と化した六本木は裏社会では「かけつけ場所」として認識されていたのかもしれません。

 赤坂区の赤坂に関しては博徒組織「長谷川一家」(初代総長・長谷川亀吉体制)が赤坂から新橋銀座にかけて縄張りを持っていました(*17)。篠原縫殿之輔(後の「生井一家」総長)が長谷川一家二代目を継承したことから、長谷川一家は「一家」とはなっているものの、実態は生井一家内の組織(生井一家の2次団体)だったのかもしれません。もしくは長谷川一家は独立の組織だったものの、長谷川一家二代目総長・篠原縫殿之輔体制時に、生井一家に組織ごと移籍したのかもしれません。

 六本木には六本木交差点があります。ヤクザ事情に詳しい都内の実業家の情報によれば2000年代「六本木交差点から麻布方面の地域」(六本木通りより南側)は「國粹会」の縄張りでした(*18)。落合一家は國粹会の加盟団体(國粹会2次団体)でした(*19)。六本木における國粹会とは落合一家を指しました。つまり2000年代「六本木交差点から麻布方面の地域」(六本木通りより南側)は落合一家の縄張りだったことが分かります。しかし実際は「住吉会」2次団体の「小林会」が長い間、その縄張り(六本木交差点から麻布方面の地域)を落合一家から借りていました(*18)。ちなみに先述の生井一家も國粹会の加盟団体(國粹会2次団体)でした(*19)。

 関東以北(特に東京都)のヤクザ社会では、あるヤクザ組織(A会)が「他団体(B一家)の縄張り(X地域)」を借り、その縄張り(X地域)内で活動する場合がありました(*20)。その際、借りる組織(A会)は、貸し出す組織(B一家)に地代(賃借料)を払いました(*20)。これによりA会は「店子」、B一家が「大家」という関係が形成されました。店子のA会はX地域を「借り縄張(かりじま)」(以降「借りジマ」と記載します」)と呼びました(*20)。

 「六本木交差点から麻布方面の地域」の場合、落合一家が「大家」、小林会が「店子」の役割を担っていました。小林会にとって「六本木交差点から麻布方面の地域」は「借りジマ」だったのです。

 國粹会は2005年9月7日、「山口組」の傘下に入りました(*19)。2005年9月以降、落合一家は「山口組3次団体」になったのです。2007年2月5日午前10時10分頃、港区西麻布四丁目の路上にて、小林会2次団体「直井組」幹部・杉浦良一が2組に射殺されました(*21)。実行犯は不明も、2月7日山口組は住吉会と話し合いをしました(*21)。翌2月8日、山口組と住吉会は和解に至りました(*21)。ちなみに小林会は中央区銀座七~八丁目の縄張りを生井一家から借りていました(*18)。小林会にとって銀座七~八丁目も「借りジマ」だったのです。

 また先述のヤクザ事情に詳しい都内の実業家の情報によれば、2000年代「ベルファーレから表参道や渋谷までの地域」は國粹会(落合一家)の縄張りでした(*18)。ベルファーレとは東京都港区六本木七丁目14番22号にあったディスコ・クラブのことです。ベルファーレは、六本木通りの北側に、外苑東通りの西側に位置していました。六本木交差点(六本木通りと外苑東通りとがまじわる交差点)から六本木通りを西に進めば、渋谷があります。渋谷一帯は落合一家の縄張りでした(*14) 。先述したように1966年以前の六本木において最寄り駅は渋谷で、バスもしくはタクシーを交通手段として渋谷に行きました。「ベルファーレから表参道や渋谷までの地域」の縄張りは、落合一家は他団体に貸し出していませんでした(*18)。

 先述のヤクザ事情に詳しい都内の実業家の情報によれば、2000年代「瀬里奈から赤坂方面の地域」は住吉会2次団体「大日本興行」の縄張りでした(*18)。瀬里奈とは、ある飲食店の名前で、六本木通りの南側に、外苑東通りの東側に位置しています。赤坂は外苑東通りの東側に位置していることから、外苑東通りの東側~赤坂の地域が大日本興行の縄張りだったと考えられます。2001年時点、大日本興行は赤坂に本部事務所を置いていました(*22)。大日本興行の初代は高橋輝男であり、その高橋輝男の子分の1人に小林楠扶がいました(*23)。小林楠扶は、先述の小林会の初代でした(*24)。高橋輝男の系列組織が六本木で勢力を張ったのでした。「大日本興行」という組織名は、1952年設立の「大日本興行株式会社」に由来しました(*24)。大日本興行株式会社はボクシングの興行を手掛けていました(*24)。高橋輝男はこの大日本興行株式会社に関与していました(*24)。高橋輝男の親分は、住吉一家三代目の阿部重作でした(*24)。大日本興行は住吉一家の傘下勢力でした(*24)。

  2001年時、大日本興行・最高顧問の鈴木龍馬は(*22)、芸能界のトラブルを解決する人物として知られていました(*25)。トラブルを抱えた芸能人は鈴木龍馬の自宅(赤坂の高級マンション→佃島のタワーマンション)を訪れ、トラブル解決を依頼しました(*25)。鈴木龍馬がその場で数件の電話をかけて解決することもありました(*25)。トラブルは金銭的なものが多く、借金の申し込み、資金回収などがありました(*25)。しかし2002年10月21日、鈴木龍馬は自宅浴室で割腹自殺をしました(*22)。前年(2001年)9月18日14時過ぎ、赤坂の大日本興行の本部事務所にて、発砲事件がありました(*22)。その発砲事件は大日本興行内での争いによるものでした(*22)。その事件により、鈴木龍馬は破門されました(*22)。

 六本木の話に戻ります。1972年「稲川会」は六本木に本部事務所を設けました(*26)。1973年7月、旧「東声会」会長の町井久之(本名:鄭建永)は、六本木にTSK・CCCターミナルビルを開業させました(*27)。先述したように営団地下鉄日比谷線の六本木駅の開設は1966年でした。六本木駅開設以降に、稲川会は本部事務所を設け、町井久之はTSK・CCCターミナルビルを開業させたのです。

 六本木では違法薬物が流通していました。『薬物売人』(2021年、幻冬舎新書)の著者・倉垣弘志氏は2000年代、六本木でバー店主を務める一方、違法薬物の販売をしていました(*28)。倉垣氏の手掛けた違法薬物は覚醒剤(通称:シャブ)、コカイン、マリファナ、MDMAでした(*28)。

 倉垣氏は覚醒剤の場合、10gを20万円で仕入れ、0.2gあたり1万円で密売していました(*28)。覚醒剤10g全部売った場合、収益は50万円になりました。仕入れ費は20万円だった為、利益は30万円になりました。倉垣氏の1カ月の覚醒剤仕入れ量は30g程度でした(*28)。

 また倉垣氏はコカインの場合、20gを18万円で仕入れ、1gあたり2万円で密売していました(*28)。コカイン20g全部売った場合、収益は40万円になりました。仕入れ費は18万円だった為、利益は22万円になりました。倉垣氏の1カ月のコカイン売却量は50g程度でした(*28)。ちなみに2002年以前のヨーロッパ大陸においてコカインは末端市場で1gあたり110~120ユーロで密売されていました(*29)。

 倉垣氏はマリファナの場合、100g単位で仕入れ、10gに分けて販売していました(*28)。マリファナ100gの仕入れ価格は20~25万円でした(*28)。一方、倉垣氏は1gあたり5,000円の価格で売りました(*28)。マリファナ100g全部売った場合、収益は50万円になりました。仕入れ費は20~25万円だった為、利益は25~30万円になりました。

  六本木や西麻布には、経営者や芸能人、アスリートに女性を紹介する「アテンダー」と呼ばれる者達がいました(*30)。かつてアテンダーを務めていた東谷義和は「彼らの需要に応えて女の子を紹介してあげる。トラブルが発生したときには、隠密裏に問題を解決する。汚れ仕事まできっちりこなすのが、アテンダーとしてのプロフェッショナルの流儀や」と述べていました(*30)。アテンダーには「トラブル処理」も求められていたのです。

 西麻布には鉄道の駅はなく、最寄り駅は六本木もしくは広尾(日比谷線)になりました(*31)。徒歩で行くには距離があり、西麻布の店に向かう主な交通手段は、タクシーでした(*31)。

 六本木には日比谷線の他に都営地下鉄・大江戸線の駅があります。大江戸線は1991年12月10日、まず光が丘~練馬間が開業しました(*32)。1997年12月19日、練馬~新宿間が延伸開業しました(*32)。2000年4月には新宿~国立競技場間が延伸開業し、同年(2000年)12月国立競技場~都庁前間が延伸開業しました(これで全線が開業しました)(*32)。六本木駅は国立競技場~都庁前間にあります。ゆえに大江戸線の六本木駅は2000年12月以降に開設されました。

 最後に日比谷線(営団地下鉄:現在の東京メトロ)の相互直通運転(相互乗り入れ)の話をします。日比谷線と相互直通運転していたのは、東武鉄道伊勢崎線と東京急行電鉄(東急)東横線でした。先述したように日比谷線の軌間は1,067mmです。関東の私鉄では東武鉄道、西武鉄道、小田急電鉄、東京急行電鉄、京王電鉄井の頭線、相模鉄道、伊豆急行、伊豆箱根鉄道などの軌間も1,067mmです(*33)。JR(新幹線を除く)の軌間も1,067mmです(*33)。

<引用・参考文献>

*1 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書), p26

*2 『首都東京 地下鉄の秘密を探る 歴史・車両・駅から見た地下路線網』(渡部史絵、2015年、交通新聞社新書), p49-50,61-63,206-208

*3 『東京都の歴史』「市・郡沿革表」(2021年、山川出版社), p21

*4 『東京 花街・粋な街』(上村敏彦、2008年、街と暮らし社),p213-216

*5 『花街 遊興空間の近代』(加藤政洋、2024年、講談社学術文庫),p3-4

*6 『花街 遊興空間の近代』「花街関連用語集」,p219-221

*7 『東京 花街・粋な街』,p151-154

*8 『東京 花街・粋な街』,p57-66

*9 『仁義の祭り – 実録戦後やくざ史』「会長襲撃」(藤田五郎、1988年、青樹社),p45

*10 『関東やくざ者』(藤田五郎、1971年、徳間書店),p26

*11 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p61

*12 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店), p144-145

*13 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』, p121-122

*14 『現代ヤクザ大事典』, p43

*15 『やくざ事典』(井出英雅、1971年、雄山閣出版),p134-135

*16 『現代ヤクザ大事典』, p195

*17 『関東やくざ者』,p71-73

*18 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫),p108

*19 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』,p46-47

*20 『ヤクザ1000人に会いました!』(鈴木智彦、2012年、宝島SUGOI文庫), p184-185

*21 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』,p212-221

*22 『極私的ヤクザ伝 昭和を駆け抜けた親分41人の肖像』(山平重樹、2023年、徳間書店),p140-141

*23 『極私的ヤクザ伝 昭和を駆け抜けた親分41人の肖像』,p119,134-135

*24 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫),p307-318

*25 『芸能界とヤクザ』「芸能界の“守護神”と呼ばれた「住吉会」の大物と「Vシネマ俳優」秘話」(鈴木智彦、2022年、宝島SUGOI文庫),p180-183

*26 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社),p36

*27 『裏社会 闇の首領たち』(礒野正勝、2012年、文庫ぎんが堂),p159-163

*28 『薬物売人』(倉垣弘志、2021年、幻冬舎新書),p57,188-210

*29 『[文庫クセジュ] 合成ドラッグ』(ミシェル・オートフイユ/ダン・ヴェレア著、奥田潤/奥田陸子訳、2004年、白水社),p26

*30 『死なばもろとも』(ガーシー(東谷義和)、2022年、幻冬舎),p100-101,108-109

*31 『聖域 関東連合の金脈とVIPコネクション』(柴田大輔、2018年、宝島SUGOI文庫),p359

*32 『首都東京 地下鉄の秘密を探る 歴史・車両・駅から見た地下路線網』,p225

*33『「民都」大阪対「帝都」東京 思想としての関西私鉄』(原武史、2020年、講談社学術文庫),p54

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