1962年以前、山梨県甲府市における主要なヤクザ組織としては「加賀美一家」がありました(*1)。加賀美一家のトップは加賀美猛でした(*1)。加賀美猛は300人以上の子分を擁していました(*1)。加賀美一家には「代貸」という役職があったことから(*1)、加賀美一家は博徒系組織であったと考えられます。
山梨県では他に博徒組織「吉田川一家」が富士吉田市(山梨県東南部)を拠点に(*2)、「親之助一家」が大月市(山梨県東部)を拠点に活動していました(*3)。吉田川一家、親之助一家ともに「日本国粋会」(1次団体)に加盟していました(*2) (*3)。親之助一家は1969年、日本国粋会(当時は「国粋睦」という組織名)を脱退しました(*3)。2016年11月時点、親之助一家は「稲川会」の2次団体として活動していました(*4)。
1962年10月「鶴政会」(現在の稲川会)の「石井隆匡派」が甲府市に侵攻、加賀美一家と抗争に至りました(*1)。戦況は石井隆匡派が優勢でした(*1)。結果、加賀美一家トップの加賀美猛は引退し、鶴政会が甲府市を手中に収めました(*1)。
当時、鶴政会は横浜も縄張りとしていました(*5)。1960年「山口組」2次団体「井志組」が山下町の南京街に進出、翌1961年12月山口組2次団体「菅谷組」が横浜に進出しました(*5)。またその翌1962年2月井志組は横浜支部を設けました(*5)。また同年(1962年)6月には、山口組2次団体「益田組」も横浜に進出しました(*5)。1960年以降、山口組が「鶴政会の領土」に侵攻してきたのです。
鶴政会の前身は「稲川組」でした(*6)。稲川組は1949年、静岡県熱海で結成されました(*6)。その後、稲川組は隣県の横浜を支配下に置き、また川崎、小田原などにも進出し、領土を拡張していきました(*6)。稲川組トップの稲川聖城(若い頃は「稲川角二」と名乗っていました)(*6)は、稲川組結成前の1948年、横浜愚連隊四天王の出口辰夫と井上喜人を配下に収めていました(*7)。また1952年に稲川組は、横浜愚連隊四天王の吉水金吾と林喜一郎も配下に収めました(*7)。
先述した井上喜人(横浜愚連隊四天王の1人)は1955年時、稲川組幹部になっており、博徒組織「石塚一家」(横須賀市)幹部の石井隆匡と兄弟盃を交わしました(*8)。後の1961年、石井隆匡が石塚一家の首領になり、同時(1961年)に石塚一家は鶴政会に加盟しました(*8)。前年(1960年)の時点では石塚一家は「双愛会」に加盟していました(*9)。1960年時の石塚一家の首領は石塚儀八郎でした(*9)。
1959年1月稲川組は東京の六本木に進出しました(*6)。六本木において稲川組は「稲川興業」の看板を上げました(*6)。また同年(1959年)夏、博徒組織「碑文谷一家」が稲川組に入りました(*10)。碑文谷一家は東京の大井、大森、目黒、五反田、品川周辺を縄張りとしていました(*10)。1959年は「稲川組の東京進出」の年だったのです。
稲川組は1959年11月「鶴政会」に改称しました(*11)。鶴政会(旧稲川組)は元々、拡張主義的な性格を持っていたといえます。
1960年以降の山口組の横浜侵攻は、鶴政会に危機感を与えたと考えられます。先述したように1962年10月石井隆匡派が甲府市に進出しました。その前年(1961年)の10月には鶴政会2次団体「林一家」が岐阜県に進出しました(*12)。林一家は岐阜の地元組織「池田一家」の幹部を配下に収める形で、岐阜県に進出を果たしたのです(*12)。「山口組の侵攻」に触発される形で、1961年以降の鶴政会において、拡張主義が強化されていったのかもしれません。
先述した石塚一家出身の石井隆匡は1963年「横須賀一家」総長に就きました(*9)。後に石井隆匡は稲川会二代目の会長(在任期間:1986~1990年)になりました(*8)。石井隆匡派の甲府侵攻(1962年)の翌年に、石井隆匡は横須賀一家の総長になったことが分かります。石井隆匡派の甲府勢力(川上三喜の率いる勢力:川上組)は1963年以降、「横須賀一家内の勢力」となりました(*1) (*13)。
鶴政会は1963年「錦政会」に改称しました(*6)。錦政会は1972年「稲川会」に改称しました(*6)。
山梨県の話に戻ります。1962年10月以降、横須賀一家2次団体「川上組」トップの川上三喜が、甲府市で「山梨一家」を立ち上げました(*1) (*13)。川上三喜は山梨一家の初代総長になりました(*13)。川上三喜は元々、先述した出口辰夫(横浜愚連隊四天王の1人)の舎弟でした(*1)。
1994年10月29日、川上三喜は病死しました(*14)。死去時においても川上三喜は山梨一家総長の地位にいました(*14)。
1997年近藤登が山梨一家の二代目を継ぎました(*13)。2003年佐野照明が山梨一家の三代目を継ぎました(*13)。
佐野照明(山梨一家三代目総長)は2011年、稲川会を脱退、新団体「山梨俠友會」を立ち上げました(*13)。一方、稲川会は佐野照明を破門処分としました(*15)。また稲川会は佐野照明の山梨一家三代目を抹消とし、代わりに小林山水を「山梨一家三代目総長」に就かせました(*15)。翌2013年、保阪貫作が山梨一家の四代目を継ぎました(*15)。
2014年12月佐野照明(山梨俠友會トップ)が自動車に乗っている際に、銃撃され、負傷しました(*15)。
2016年2月17日、山梨俠友會と稲川会は和解に至りました(*15)。和解の結果、2月19日、山梨俠友會は解散しました(*15)。2月24日、佐野照明は稲川会の2次団体「山川一家」本部を訪れ、稲川会の清田次郎会長や内堀和也理事長等に謝罪しました(*15)。この謝罪により、旧山梨俠友會は「佐野組」として稲川会に復帰しました(*15)。
江戸時代まで歴史を遡ると、中村長兵衛(本名:渡辺長兵衛)の率いる博徒組織(長兵衛一家)が甲州一帯に縄張りを持っていました(*16)。中村長兵衛は1862年(文久二年)12月9日、78歳前後にて死去しました(*16)。「長兵衛一家の三羽鳥」としては中村安五郎、森久治郎、中村鹿之助(中村長兵衛の実子)がいました(*16)。
森久治郎は博徒組織「大場(だいば)一家」を結成しました(*17)。森久治郎は1853年(嘉永六年)、品川沖に洋式砲台(お台場)を築造する土木工事において、数千人を指揮しました(*17)。森久治郎が賭博業の他に、人足供給業や土建業を手掛けていたことが窺えます。大場一家の勢力圏は駿州(駿河)、豆州(伊豆)、甲州(甲斐)、武州(武蔵)、相州(相模)の5カ国に及び、名の知れた貸元が59人いました(*17)。勢力が広域化していたことから、大場一家(1次団体)内の統率や指揮命令系統が機能していたかは疑わしいと考えられます。おそらく名目的な博徒組織の連合体だったのではないかと考えられます。
中村鹿之助の博徒組織「鹿之助一家」には、綱島小太郎が世話になっていました(*16)。世話になるとは、「世話中(世話内)」とも呼ばれており、ある組織の構成員(子分)が事情により他組織で過ごすことを指しました(*18)。世話中の者は、裏返せば「厄介者」と捉えられることもあるため、その他組織の中で挨拶や手伝いを率先してしなければなりませんでした(*18)。綱島小太郎は鹿之助一家を去った後、横浜に出て博徒組織「綱島一家」を結成しました(*16)。
<引用・参考文献>
*1 『日本のヤクザ100の喧嘩 闇の漢たちの戦争』(別冊宝島編集部編、2017年、宝島社), p106-107
*2 『実話時代』2016年10月号, p144
*3 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社),p111
*4 『実話時代』2017年1月号, p14-16
*5 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂),p172
*6 『裏社会 闇の首領たち』(礒野正勝、2012年、文庫ぎんが堂),p123-125
*7 『洋泉社MOOK・「愚連隊伝説」彼らは恐竜のように消えた』「愚連隊小史」(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社),p218
*8 『新版・現代ヤクザのウラ知識』(溝口敦、2006年、講談社+α文庫), p268-271
*9 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』,p37-39
*10 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫),p146-149
*11 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社),p34
*12 『日本のヤクザ100の喧嘩 闇の漢たちの戦争』, p104-105
*13 『実話時代』2019年6月号, p28
*14 『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫), p250
*15『実話時代』2016年5月号, p45
*16 『関東の仁義』(藤田五郎、1984年、青樹社),p139-140
*17 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p300-301
*18 『関東の仁義』,p271
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