太平洋戦争終了(1945年)後、横浜には「京浜兄弟会」という博徒組織の親睦団体がありました(*1)。京浜兄弟会は、7人の親分が「兄弟分」(義兄弟)になることで、結成されました(*1)。7人の親分とは、雨宮光安(野毛)、秋山繁次郎(伊勢佐木町)、滝沢栄一(神奈川)、高橋橋松(高島町)、山瀬惣十郎(鶴見)、外峯勇(海岸)、漆原金一郎(鶴屋町)の7人でした(*1)。
雨宮光安は博徒組織「綱島一家」(*2)系統の者でした(*3)。綱島一家は、初代・綱島小太郎の時、北仲通以南の関内全般を縄張りとしていました(*3)。
博徒組織の縄張りとは「賭場の開帳権を行使できる地理的範囲」のことでした(*4)。綱島一家(初代・綱島小太郎)は、関内全般において賭場開帳の権利を持っており、他団体が関内で賭場を開帳した場合には強く抗議することができたのです。
秋山繁次郎は博徒組織「轟一家」系統の者でした(*3)。轟一家は綱島一家を出身母体としていたといわれていましたが、実際「轟一家の出身母体は綱島一家」という話は確定的ではありませんでした(*5)。
轟一家は轟由次郎により興されました(*3)。轟一家は、初代・轟由次郎の時、伊勢佐木町方面に縄張りを持っていました(*3)。
戦前(1941年以前)、横浜の都心は関内~伊勢佐木町でした(*6)。岡田直によれば、1950年代までの横浜において関内が「官公庁街」と「ビジネス街」を担い、伊勢佐木町が「中心商店街(繁華街)」を担っていました(*6)。伊勢佐木町は「ハマの銀座」と呼ばれていました(*6)。
1960年代以後、横浜駅西口が繁華街として発展していきました(*6)。
1960年代、市電の走る旧市街地(主に横浜市域中南部…中区、南区、西区、磯子区など)の住民は、買い回り品(低頻度高価格帯の商品)などを買う際、主に伊勢佐木町に行きました(*6)。一方、国鉄や私鉄沿線の郊外(主に横浜市域北西部…神奈川区、港北区、保土ケ谷区など)の住民が、買い回り品などを買う際、主に横浜駅西口に行きました(*6)。1960年代は横浜市内の地域ごとに「主要繁華街」が異なっていたのです。
しかし1970年代半には、繁華街の機能面において、横浜駅西口が伊勢佐木町を凌駕しました(*6)。1980年代には横浜市内の全区の住民が、買い回り品などを買う際、主に横浜駅西口に行きました(*6)。
時代を戻します。高橋橋松と外峯勇は博徒組織「戸部一家」(*2)系統の者でした(*3)。
山瀬惣十郎は博徒組織「堀井一家」(*2)系統の者でした(*3)。
漆原金一郎は博徒組織「埋地一家」(初代:渡辺仙太郎)(*2)系統の者でした(*7)。埋地一家は、初代・渡辺仙太郎の時、本牧(ほんもく)方面に縄張りを持っていました(*7)。
戦前(1941年以前)、綱島一家、戸部一家、堀井一家、埋地一家は横浜では有名な博徒組織でした(*2)。
「稲川会」の源流組織は1949年結成されました(*8)。山瀬總十郎は昔から稲川会で活動していました(*9)。山瀬總十郎は山瀬一家(稲川会2次団体)のトップでもありました(*9)。時代と地域が同一であることから、「京浜兄弟会の山瀬惣十郎」と「山瀬一家の山瀬總十郎」は同一人物であったと推測されます。
山瀬總十郎の死去後、山瀬一家の跡目を継ぐ者はいませんでした(*9)。山瀬一家は活動休止状態になっていたと考えられます。2007年稲川会の沖勝彦が「二代目山瀬一家」を名乗ったことで、「山瀬一家の名称」を稲川会に復活させました(*9)。
横浜は港湾都市です。1894年(明治二十七年)、横浜港で「鉄桟橋」(現在の「大さん橋」)が完成しました(*10)。桟橋には船舶が接岸できました(*11)。
また1899年(明治三十二年)から1917年(大正六年)、横浜税関による第二期築港工事がありました(*10)。その一環で1917年、「新港ふ頭」が横浜港に完成しました (*10)。新港ふ頭では大型の船舶が接岸できました(*10)。新港ふ頭には岸壁(がんぺき)が1~13号まであり、また2本の突堤(とってい)がありました(*10)。岸壁とは、ふ頭の係留施設のことです。一方、突堤とは、陸地から海に向かって長く伸びた堤防状のものです。大型船舶は1917年以降、横浜港において岸壁(1~13号)もしくは突堤(2本)に接岸できるようになったのでした。1917年以降、横浜港では大型の船舶が本格的に接岸できるようになったのです。
港湾において貨物の船積み(陸地→貨物船)、陸揚げ(貨物船→陸地)作業は、港湾荷役労働者が担っていました(*12)。港湾荷役労働者は昔「仲仕(なかし)」と呼ばれていました(*12)。
仲仕には「沿岸仲仕」と「沖仲仕」の2つがありました(*12)。船積みにおいて沿岸仲仕は「沿岸からハシケに」貨物を積み込み、沖仲仕は「ハシケから貨物船に」貨物を積み込みました(*12)。ハシケとは「自走不可の特殊港運船」のことです(*13)。昔の港は十分な水深を確保できなかった為、大きな貨物船は港に接岸できませんでした(*13)。ハシケが沿岸と貨物船(沖に停泊)の間を行き来することで、貨物の船積み及び陸揚げが行われていました(*13)。おそらく陸揚げにおいては、沖仲仕が「貨物船からハシケに」貨物を積み込み、沿岸仲仕が「ハシケから沿岸に」貨物を揚げていたと考えられます。沿岸仲仕とは「沿岸」と「ハシケ」間の荷役作業を担う者で、一方の沖仲仕とは「ハシケ」と「貨物船」間の荷役作業を担う者だったのでしょう。
先述したように横浜港では1917年の「新港ふ頭の完成」で、1~13号の岸壁と2本の突堤が利用可となり、大型の船舶が本格的に接岸できるようになりました。繁忙期は1~13号までの岸壁と2本の突堤が埋まり、沖に停泊した貨物船もあったと考えられますが、1917年以降、沖仲仕全体の業務(「ハシケ」と「貨物船」間の荷役作業)量は減少したと考えられます。
しかし1917年以降、横浜港での輸出入量が増加し、沖に停泊せざるおえない貨物船(岸壁や突堤を利用したくてもできない貨物船)の数が増えてしまったという可能性もあります。その場合、沖仲仕全体の業務(「ハシケ」と「貨物船」間の荷役作業)量は増加したと考えられます。
もしくは沖仲仕側が「沿岸」と「貨物船」間の荷役作業も兼ねた場合、沖仲仕全体の業務量は特に変わらなかったと考えられます。しかしこの場合、沿岸仲仕全体の業務量は、減ってしまったと考えられます。接岸した貨物船において、「沿岸」と「ハシケ」間の荷役作業自体が、なくなるからです。
1917年以降の横浜港では、「沿岸仲仕」と「沖仲仕」の間で、業務の再編が行われたのかもしれません。
神戸港でも同時期に築港工事があり、1921年(大正十年)第1突堤~第3突堤が完成しました(*14)。横浜港に新港ふ頭が完成したのは1917年でしたので、4年後に神戸港も接岸できる港に変わったのでした。1921年以降、神戸でも沖仲仕全体の業務(「ハシケ」と「貨物船」間の荷役作業)量は減少したと考えられます。しかしこの場合も、1921年以降、神戸港での輸出入量が増加し、沖に停泊せざるおえない貨物船(岸壁や突堤を利用したくてもできない貨物船)の数が増えてしまったという可能性もあります。その場合、沖仲仕全体の業務(「ハシケ」と「貨物船」間の荷役作業)量は増加したと考えられます。
もしくは神戸港においても沖仲仕が「沿岸」と「貨物船」間の荷役作業も兼ねた場合、沖仲仕全体の業務量は特に変わらなかったと考えられます。しかしこの場合、沿岸仲仕全体の業務量は、減ってしまったと考えられます。接岸した貨物船において、「沿岸」と「ハシケ」間の荷役作業自体が、なくなるからです。
1921年以降の神戸港では、「沿岸仲仕」と「沖仲仕」の間で、業務の再編が行われたのかもしれません。
「山口組」は1915年(大正四年)、山口春吉により「沖仲仕の組織」として結成されました(*15)。山口春吉は淡路島の東浦町出身で、神戸港に出て、「倉橋組」の労働部屋で沖仲仕になりました(*16)。結成時の山口組は独立団体ではなく、博徒組織「大嶋組」の傘下にありました(*16)。その際、山口春吉は大嶋組組長・大嶋秀吉の舎弟になりました(*16)。山口春吉は山口組の事業において「下宿屋」を営んでいました(*16)。山口春吉は「沖仲仕の親方」兼「下宿屋の主人」だったのです。沖仲仕は下宿屋(労働部屋)に居住しており、1日25銭の下宿代を下宿屋に払いました(*16)。山口春吉は沖仲仕業務の請負先等から、代金を受け取ると、下宿代等を抜いた上で、抱えている沖仲仕に労賃を毎月4日と19日に払いました(*16)。また当時の下宿屋では沖仲仕を客とする賭場が概ね開帳されていました(*16)。山口春吉は下宿屋を通じて、抱える沖仲仕を管理していたのです。当時の神戸には下宿屋が300ほどありました(*16)。
後に山口春吉は魚市場の荷役などにも進出、また浪曲や相撲の興行も手掛けました(*15)。1921年神戸港における第1突堤~第3突堤の完成が、山口組に何かしらの影響を及ぼしたのかもしれません。
1925年(大正十四年)、山口登が山口組二代目を継承しました(*15)。太平洋戦争終了(1945年)後、山口組(三代目田岡一雄組長体制)は1953年以降、船内荷役業を手掛けていきました(*17)。船内荷役とは「岸壁・ハシケ」と「貨物船」と間の荷役作業のことでした(*17)。船内荷役は、沖仲仕の業務に似ていました。
横浜港の話に戻ります。新港ふ頭(1917年完成)内には国有鉄道の貨物取扱所が設けられました(*10)。1~11号の接岸には上屋(うわや)が設けられ、各上屋と貨物取扱所(国有鉄道)の間には線路が敷かれました(*10)。上屋とは、荷捌きや中継作業等の目的で、貨物を仮置きする施設のことです(*18)。港湾では上屋にて輸出入貨物を対象とする通関、一時保管を行いました。
横浜税関は輸入品を一時的に保管する為に、新港ふ頭に「保税倉庫」(現在の赤レンガ倉庫)を設けました(*10)。新港ふ頭は別名「税関ふ頭」とも呼ばれました(*10)。
新港ふ頭内の貨物取扱所は1920年(大正九年)7月、「横浜港駅」に改称しました(*10)。しかし横浜港駅の取扱量には限界があった為、輸出品の生糸は主に「東横浜貨物駅」で下ろされました(*10)。生糸はトラックや荷車で、「東横浜貨物駅」から「市内の生糸問屋」に輸送されました(*10)。生糸問屋は生糸に輸出用の梱包をしました(*10)。その後、生糸はトラックや荷車で「市内の生糸問屋」から「新港ふ頭」に輸送され、貨物船に船積みされました(*10)。当時、横浜着の貨物の多くは、東横浜貨物駅が担っていました(*10)。
太平洋戦争終了(1945年)後、アメリカ合衆国軍は横浜港と東京港の主要部分の大半を接収しました(*19)。神戸港も同様に接収されました(*20)。
<引用・参考文献>
*1 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p285
*2 『仁義の祭り – 実録戦後やくざ史』「横浜極道者」(藤田五郎、1988年、青樹社),p120-121
*3 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p293-297
*4 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p61
*5 『関東の仁義』(藤田五郎、1984年、青樹社),p135
*6 『横浜 鉄道と都市の150年』(岡田直、2023年、有隣新書),p195-197
*7『公安大要覧』,p312
*8 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p32
*9 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p61
*10 『横浜 鉄道と都市の150年』,p46,78-79,81-82
*11 『基本ロジスティクス用語辞典 〔第3版〕』「バース」(三木楯彦、2009年、白桃書房),p149
*12 『FOR BEGINNERS シリーズ ヤクザ』(朝倉喬司、1990年、現代書館),p107-108
*13 横浜市サイト(港湾局)「コンテナ専用はしけ輸送」
https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/yokohamako/kkihon/kankyo/hashike.html
*14 神戸税関サイト「神戸港の移り変わり」
https://www.customs.go.jp/kobe/00zeikan_top.htm/kobekou.htm
*15 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス),p14-16
*16 『昭和の俠客:鬼頭良之助と山口組二代目』(正延哲士、2002年、ちくま文庫),p16-17
*17 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、1998年、講談社+α文庫),p89
*18 『基本ロジスティクス用語辞典 〔第3版〕』「上屋」(長峰太郎、2009年、白桃書房),p13
*19 『江戸の都市計画』(鈴木理生、2024年、ちくま学芸文庫),p309
*20 『血と抗争 山口組三代目』,p82
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