遊廓から赤線へ

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 遊廓とは「貸座敷(遊女屋)の営業許可地区」のことでした(*1)。貸座敷とは「公認の売春宿」のことで、貸座敷では娼妓(公娼)達が部屋を借りて売春する方法がとられていました(*2)。遊廓とは言い換えると、公娼地域のことでした。

 1872年(明治五年)10月2日の太政官布告により、日本において人身売買が禁止されました(*2)。人身売買の禁止により、娼妓や芸妓などの年季奉公人は解放されることになりました(*2)。

 売春宿側はこの太政官布告(1872年)を踏まえて、「店側は娼妓に部屋を貸している」という体裁をとることで、営業を続けていきました(*2)。

 明治時代の東京府では新吉原、根津、品川、新宿、千住、板橋が公娼地域(遊廓)に指定されました(*3)。

 遊廓の番頭は「妓夫太郎(ぎゅうたろう)」と呼ばれていました(*4)。妓夫太郎は「牛太郎」と記載されることもありました(*4)。

 八王子には田町遊廓がありました(*5)。八王子では元々、甲州街道沿いに貸座敷が点在していました(*5)。1897年(明治三十年)の八王子大火の後、甲州街道沿いの貸座敷が田町に移転し、田町遊廓が誕生しました(*5)。

 八王子は元々、神奈川県の南多摩郡の管轄下でした(*6)。1893年(明治二十六年)4月1日、南多摩郡は西多摩郡、北多摩郡とともに神奈川県から東京府へ編入されました(*7)。

 当時、遊廓に女性を送り込んだのが「桂庵(けいあん)」と呼ばれた就職口紹介人でした(*8)。

 また遊廓には「遣手(やりて)」という者がいて、遣手は「客あしらいに関する娼妓への教育」「客種の目利き」「苦情の処理係」等を担っていました(*9)。

 1888年(明治二十一年)根津遊廓は洲崎に移転しました(*10)。洲崎は東京府深川区(*11)にありました。

 太平洋戦争終了(1945年)以前の日本において行政側は遊廓(公娼地域)の存在を公認(実態は黙認)していたのです。この体制は公娼制度と呼ばれていました。

 太平洋戦争終了(1945年)後、連合国軍総司令部(GHQ:General Headquarters)のアレン大佐が1946年1月21日、公娼制度廃止を日本政府に要請しました(*12)。このGHQの要請により、日本において公娼制度は廃止されました(*12)。売春は日本において禁止されたのです。

 しかし実態は異なっていました。旧遊廓は「特殊飲食店街」という形態に表向き変わったものの、売春宿群としての活動を続けていきました(*12)。先述の新吉原遊郭は「新吉原カフェー喫茶街」に改称しました(*12)。同時に貸座敷は「接待所」、娼妓は「女給」に改称しました(*12)。

 また日本政府側も「特殊飲食店街における売春」を黙認する形で対応していきました(*12)。警察署が地図上で特殊飲食店街を赤く囲ったことから、特殊飲食店街は別名「赤線」と呼ばれました(*12)。赤線とは「新たな公認(黙認)売春地帯」だったのです。

 戦前の遊廓であった新吉原(吉原)、品川、新宿、千住、洲崎は「赤線」(特殊飲食店街)として、売春宿群としての活動を再開しました(*13)。一方、板橋の旧遊廓には戦後、売春宿はなくなりました(*14)。

 八王子の旧田町遊廓も戦後、「赤線」となりました(*15)。しかし赤線になる前、終戦(1945年)直後の旧田町遊廓は「占領軍兵士対象の売春宿群」になりました(*15)。終戦直後の1945年8月28日、日本政府は占領軍兵士の慰安目的で「特殊慰安施設協会」(RAA)を設立しました(*15) (*16)。特殊慰安施設協会とはいわば「占領軍兵士対象の公的売春機関」でした(*15) (*16)。旧田町遊廓は特殊慰安施設協会の下で、占領軍兵士に営業していきました(*15)。つまり旧田町遊廓における売春宿は「特殊慰安施設協会の施設」として営業していったのです。特殊慰安施設協会は後に「国際親善協会」に改称しました(*15)。

 その後、性病が占領軍兵士の間で流行りました(*16)。結果、1946年3月10日「占領軍兵士の立ち入り禁止命(オフ・リミット)」が特殊慰安施設協会の全施設に出されました(*16)。半年で特殊慰安施設協会は廃業となったのでした(*16)。旧田町遊廓は、「占領軍兵士の立ち入り禁止命(オフ・リミット)」が出た後、赤線となりました (*15)。

 占領軍兵士の買春需要はその後もあったようです。関西では「互久楽会」が1951年から「奈良PRセンター」、1953年から「六甲ハイツ」(神戸市)の経営を手掛けていきました(*17)。奈良PRセンター、六甲ハイツともに占領軍兵士の売春宿でした(*17)。互久楽会は博徒組織「松田組」傘下の愚連隊グループとして結成されました(*17)。

 1952年警視庁は赤線に対し取締りを強化、赤線区域は縮小していきました(*18)。1956年5月24日、売春防止法が国会で成立しました(*19)。この売春防止法は1957年4月1日に施行される予定でしたが、刑事処分について「1年間の猶予」が設けられた為、延期されました(*18)。結局、翌1958年4月1日、売春防止法は施行されました(*18)。売春防止法の施行(1958年4月1日)により赤線は消滅しました(*18)。すでに1957年10月15日、赤線(特殊飲食店街)では女性の雇い入れ(新規採用)が禁止されていました(*18)。

 旧遊廓のみが赤線になったのではなく、「旧遊廓以外の地域」も赤線になっていました。戦前、玉の井(向島区)の売春宿群は「非公認」の存在(私娼窟)でした(*20)。1947年3月15日、向島区と本所区が合併し、隅田区が誕生しました(*11)。玉の井売春宿群の通称は「銘酒屋街」でした(*20)。売春宿は表向き「銘酒屋」として営業していました(*20)。銘酒屋とは小規模で中身のない酒瓶が並べられている店で、「白首」と呼ばれた娼婦が客を引き入れて、売春をする店のことでした(*20)。玉の井売春宿群は、戦後「赤線」となりました(*16) (*19)。

<引用・参考文献>

*1 『花街 遊興空間の近代』「花街関連用語集」(加藤政洋、2024年、講談社学術文庫), p220-221

*2 『洲崎遊廓物語』(岡崎柾男、1988年、青蛙房), p35

*3 『花街・色街・艶な街 色街編』(上村敏彦、2008年、街と暮らし社),p19

*4 『洲崎遊廓物語』, p41

*5 『花街・色街・艶な街 色街編』, p128

*6 『東京都の歴史』「市・郡沿革表」(2021年、山川出版社),p28

*7 『東京都の歴史』「9章 東京の成立」(藤野敦、2021年、山川出版社), p323

*8 『洲崎遊廓物語』, p60

*9 『洲崎遊廓物語』, p48-50

*10 『深川狭斜史』(野澤一郎、1934年、雲峯閣書林),p4

*11 『東京都の歴史』「市・郡沿革表」,p22-23

*12 『遊廓・花柳界・ダンスホール・カフェーの近代史』(小針侑起、2022年、河出書房新社),p42,70

*13 『遊廓・花柳界・ダンスホール・カフェーの近代史』,p44-49

*14 『花街・色街・艶な街 色街編』, p43

*15 『花街・色街・艶な街 色街編』, p129

*16 『花街・色街・艶な街 色街編』, p90,95

*17『大阪ヤクザ戦争 ― 30年目の真実 ―』(木村勝美、2009年、メディアックス),p236

*18 『遊廓・花柳界・ダンスホール・カフェーの近代史』,p50

*19 『花街・色街・艶な街 色街編』, p91

*20 『花街・色街・艶な街 色街編』, p85-89

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