茶の密輸

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 1784年以前、イギリスにおける茶の関税は高く、茶の関税率はほとんど80%以上で推移していました(*1)。当時のヨーロッパは中国から茶を輸入していました(*2)。

 1690年時のイギリスにおける茶の関税率は500%でした(*2)。現在の日本円に置き換えると500%関税の場合、輸入業者は外国から該当商品を1万円で仕入れたら、「5万円の関税」を支払う必要があります。

 1784年ピットの減税法により、茶の関税は12.5%となりました(*3)。ピットの減税法施行前における茶の関税は110%でした(*3)。ピットの減税法以前の商人は例えば1ポンドの茶の輸入時「1.1ポンドの関税」を支払いましたが、ピットの減税法以後の商人は「0.125ポンドの関税」を支払えば済むこととなりました。関税が低くなれば、小売価格も低くなっていきます。1784年以降、イギリスにおける茶の価格は低下しました(*3)。

 1773年以前のアメリカ(当時イギリスの植民地)が茶を輸入した際、本国イギリスよりも「高い支出」を余儀なくされました(*4)。法律上1773年以前のアメリカは、茶をイギリスから輸入するしかありませんでした(*4)。イギリスがアメリカに輸出する茶には、「輸出税」が課税されていました(*4)。しかし1773年6月に制定された茶条例により、中国から直接アメリカに茶を輸入できるようになり、また中国からの茶の輸入関税も低くなりました(*4)。

 1784年以前のイギリス、また1773年以前のアメリカでは、高関税により茶は高価格帯でした。しかし当時のイギリスでは茶の密輸が盛んに行われていたと考えられています(*1)。

 北欧のスウェーデンは1731年に東インド会社を設立しました(スウェーデンの東インド会社が解散したのは1813年)(*3)。スウェーデンの東インド会社は中国の広州に商館を置き、中国と貿易をしていました(*3)。1770年時スウェーデンの東インド会社の輸入額において、茶が69%を占めていました(*3)。1780年時輸入額においては茶が80%を占めていました(*3)。

 スウェーデンでは茶は消費されませんでした(*3)。イギリスにおいて、茶の輸入つまり中国との貿易は1833年まで「イギリスの東インド会社の独占事業」でした(*5)。当時スウェーデンの東インド会社が茶を合法的にイギリスに再輸出することはできませんでした。おそらくスウェーデンの東インド会社は茶をイギリスに密輸していたと考えられています(*3)。フランスもイギリスに茶を密輸していたと考えられています(*2)。

 1773年以前のアメリカもオランダやスウェーデンの東インド会社、フランスの商人により茶が密輸されていました(*4)。当時茶条例(1773年6月制定)により「合法領域の茶の低価格化」が起き、密輸茶の価値が相対的に低くなることをアメリカの密輸業者が懸念していたと考えられています(*4)。

 茶条例制定の半年後、1773年12月16日マサチューセッツ植民地のボストンにて、停泊中のイギリスの東インド会社商船三隻が約60人の植民地人に襲撃され、積み荷の茶が海に投棄されてしまいました(*4)。後に、12月16日の出来事は「ボストン茶会事件」と呼ばれました(*4)。

<引用・参考文献>

*1 『海洋帝国興隆史 ヨーロッパ・海・近代世界システム』(玉木俊明、2019年、講談社選書メチエ), p161-162

*2 『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』(羽田正、2019年、講談社学術文庫), p270-271

*3 『海洋帝国興隆史 ヨーロッパ・海・近代世界システム』, p156-158

*4 『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』, p321-322

*5 『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』, p335

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