2019年4月時点、山口組の中核的2次団体・弘道会内には「浜健組」という組織が活動していました(*1)。浜健組は「弘道会の2次団体」(山口組3次団体)で、浜田健嗣をトップに位置付けていました(*1)。浜健組の拠点は名古屋でした(*2)。2019年時、浜田健嗣は「弘道会の顧問」の職に就いていました(*1)。
しかし2020年8月時点、弘道会の組織図から「浜健組」と「浜田健嗣」の名が消えていました(*3)。浜田健嗣は1940年10月生まれ(*2)の為、2019年4月時点で浜田健嗣の年齢は「78歳」でした。80歳に近い高齢ということを踏まえると、浜田健嗣は引退もしくは引退に近いことを選んだと考えられます。同時に浜健組は解散、改称、他団体との合併等に至ったと考えられます。
2009年11月時点、浜田健嗣は「弘道会の相談役」に就いていました(*2)。弘道会において、浜田健嗣は重く扱われていたことが窺い知れます。
浜健組は元々、独立団体・導友会の2次団体でした(*4)。1985年4月、名古屋市のゴルフ場にて浜田健嗣らが、平野家一家(博徒組織)(*5)の下部団体・徳心会組員に発砲され、重傷を負いました(*4)。以降、浜健組は徳心会に報復するとともに、同年11月に1次団体・導友会の理事長を射殺しました(*4)。射殺された導友会理事長は、徳心会トップの実兄でした(*4)。おそらく導友会理事長は「抗争の調停者」の役割を担ったと考えられます。しかし調停の過程において、浜健組が導友会理事長に恨みを持つ事態に展開していったと考えられます。
導友会は、2次団体・浜健組の反逆的行動を許さず、浜田健嗣を絶縁処分としました(*4)。翌1986年の夏、浜健組と徳心会の抗争は終結しました(*4)。以上から、1985年に浜健組は独立を余儀なくされたことが分かります。
1991年以降「浜健組の残留グループ」が弘道会に移籍しました(*6)。「浜健組の残留グループ」が何を指しているのかは不明ですが、おそらく1991年もしくはその前後に浜田健嗣も弘道会に入ったと移籍したと考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『週刊実話』2019年5月9・16日号, p44
*2 『BAMBOO MOOK 二代目弘道会総覧』(ジェイズ・恵文社編、2010年、竹書房)
*3 『週刊実話』2020年8月20・27日号, p209
*4 『髙山若頭からの警告 続・弘道会の野望』(木村勝美、2020年、かや書房), p86-89
*5 『実話時代』2015年9月号, p103-104
*6 『髙山若頭からの警告 続・弘道会の野望』, p153
コメント