テキヤ業界の「一家名乗り」と「分家名乗り」

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 テキヤ業界では所属組織(本家)から独立する際、「一家名乗り」「分家名乗り」という2つの方法がありました。実績のある子分は「一家名乗り」が許されました(*1)。また一般的に、実績のある舎弟(トップの弟分)には「分家名乗り」が許されました(*1)。一家名乗りした者及び分家名乗りした者は、所属組織から独立することができました(*2)。

 一家名乗りに関しては、名目上するものの、自身の組織を立ち上げない者が多かったです(*2)。その場合、一家名乗りした本人だけで露店商売をしました(*1)。いわゆる「一人親方」として露店商売をしたのでした。

 テキヤ組織内では、大きく分けて4つの地位がありました(*3)。4つの地位とは「親分」「舎弟(親分の弟)」「実子分」「子分」のことです(*3)。

 実子分(じっしぶん)とは「実子に相当する者」という意味であり、「親分(所属組織のトップ)候補」を表す言葉でした(*4)。テキヤ組織によっては実子分に該当する者を「若者頭」と呼ぶ場合もありました(*3)。

 厚香苗によれば、「実子分の位置付け」はテキヤ組織によって若干異なっていたようです(*5)。

 猪野健治の『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』では、実子分は「所属組織(本家)の親分候補」であり、「一家名乗り」の有資格者は実子分ではない子分、「分家名乗り」の有資格者は舎弟であるという内容が、記述されていました(*1)。

 一方、山平重樹の『ヤクザ大全 その知られざる実態』では、実子分が「一家名乗り」もしくは「分家名乗り」の有資格者であったという内容が、記述されていました(*6)。また実子分ではない子分は「一家名乗り」もしくは「分家名乗り」できなかったようです(*6)。

 つまり猪野健治(『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』)が対象としたテキヤ組織では、実子分は純粋に「所属組織(本家)の親分候補」という位置付けがなされていたと考えられます。

 猪野健治が対象としたテキヤ組織の中には、実子分が複数人いた組織もありました(*1)。実子分が1人の場合、実子分が突然死去すると、組織内が混乱する可能性がある為、安全策として実子分を複数人置いていたのです(*1)。この実子分複数人制のテキヤ組織において、トップになれなかった実子分は、一般的に、本家内で「顧問」もしくは「相談役」等の役職に就きました(*1)。トップになれなかった実子分の中には、独立をした者がいたのかもしれません。

 また猪野健治が対象としたテキヤ組織では、実子分の多くは、自身の組織を持っていました(*1)。組織を持つということは、配下を抱えるということです。テキヤ業界では一家名乗りもしくは分家名乗りをして初めて、子分を持つことができました(*7)。逆にいえば、一家名乗りもしくは分家名乗りをしていない者は、子分を持つことはできませんでした。ただし、先述したように、一家名乗りをしても、自身の組織を作らず、1人で露店商売をする者も多かったです。

 おそらく猪野健治が対象としたテキヤ組織では、一家名乗りをしてから、実子分になった者が多かったと考えられます。猪野健治が対象としたテキヤ組織では、「一家名乗り」→「実子分」という昇進経路があったと推測されます。

 一方、山平重樹(『ヤクザ大全 その知られざる実態』)が対象としたテキヤ組織では、実子分は「所属組織(本家)の親分候補であり、また一家名乗りもしくは分家名乗りもできる者」という位置付けがなされていたと考えられます。また山平重樹が対象としたテキヤ組織では、先述しましたように実子分ではない子分は、一家名乗りもしくは分家名乗りできませんでした。山平重樹が対象としたテキヤ組織においては、「実子分」→「一家名乗り」もしくは「分家名乗り」という昇進経路があったことが分かります。

 山平重樹が対象とするテキヤ組織において、実子分以降の進路としては、主に3つあったと考えられます。1つが「親分(所属組織のトップ)になること」です。2つ目が「一家名乗りをして、独立して、自身の組織を立ち上げること」です。3つ目が「分家名乗りをして、独立して、自身の組織を立ち上げること」です。

 テキヤ業界では、一家に比し分家が「上位」であると見なされていました(*1)。分家名乗りして独立した者には、出身母体から庭場(縄張り)の一部が譲渡されました(*8)。一方、一家名乗りして独立した者に対しては、出身母体は庭場を割譲しませんでした(*8)。一家名乗りして独立した者は、他のテキヤ組織の庭場でショバ代(露店出店料)を払い露店商売をしていったと考えられます。また一家名乗りして独立した者の中には、「露店商品(ネタ)の問屋(卸)」の組織を立ち上げた者もいました(*8)。

 1986年極東関口会(極東会の前身)の2次団体「真誠会」では、35人の構成員が「一家名乗り」もしくは「分家名乗り」しました(*9)。一方、分家名乗りした者は、真誠会から独立していったと考えられます。真誠会は、現在の「松山連合会」(2002年に改称)の前身でした(*10)。

 一家名乗りもしくは分家名乗りにより独立はするものの、各テキヤ組織等は基本的に、自身の源流となる「本家」及び「同じ系統の組織等」とはつながりを持ち続けていきました(*2)。テキヤ組織に関する書籍において、「本家」及び「同じ系統の組織等」の総称として「一門」という言葉が使われていました(*2)。各一門は、一門の統括団体として、連合会(1次団体)を結成しました(*2)。

<引用・参考文献>

*1 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p99-100

*2 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p28

*3 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p10

*4 『現代ヤクザ大事典』,p30

*5 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書),p141

*6 『ヤクザ大全 その知られざる実態』(山平重樹、1999年、幻冬舎アウトロー文庫), p49-50

*7 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫),p33-34

*8 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p72-73

*9 『ヤクザ大全 その知られざる実態』, p107

*10 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p81

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