明王朝の時代(1368~1644年)、1374年から民間貿易が禁止されました(*1)。以降中国においては、政府機関同士による貿易(「朝貢貿易」)のみが許されました(*1)。1567年月港(福建省)が開港され、民間貿易が部分的に認められるようになりました(*2)。1374~1567年の約200年間、明王朝は民間貿易を禁止していました。
しかし明王朝の方針に反し、密貿易に携わる人達がいました。1530年代以降、中国と日本の密貿易が盛んになりました(*3)。1530年代石見銀山(日本)における銀生産量が増加しました(*3)。一方の、当時の中国は銀不足に悩まされていました(*3)。「銀余りの日本」と「銀不足の中国」という構図において、銀は日本から中国へと流れていきました(*3)。日本から中国へと流れ出る銀の「動脈」を担ったのが密貿易者でした(*3)。
1620年代後半以降、鄭芝龍率いる組織が東アジア海域で大きな影響力を及ぼしました(*4)。鄭芝龍の組織は日中貿易の事業を営む一方、敵対組織の船に対し海賊行為をしていました(*4)。1628年鄭芝龍の組織は廈門を占領しました(*4)。後に、明王朝は鄭芝龍に官位を与えることで、支配下に置きました(*4)。当時鄭芝龍の組織は約700隻の船を抱えていました(*4)。鄭芝龍の組織は「貿易活動の組織」であったのに加え、「巨大武装組織」でもあったのです。
以後鄭芝龍の組織は、東シナ海を通行する船に対し、「照牌」という証明書を販売しました(*4) 。照牌の有効期間は1年でした(*4)。照牌を持っていない船、または有効期間切れの照牌しか持っていない船は拿捕された場合、「積荷の没収」と「乗組員の逮捕」という仕打ちを受けました(*4)。貿易活動の安全の為、多くの船は照牌を買わざるをえなかったと推測されます。一方鄭芝龍の組織は、毎年「照牌の更新料」を得られたので、経済的に潤っていたと考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『陸海の交錯 明朝の興亡 シリーズ 中国の歴史④』(檀上寛、2020年、岩波新書), p49-50
*2 『陸海の交錯 明朝の興亡 シリーズ 中国の歴史④』, p140-142
*3 『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』(羽田正、2019年、講談社学術文庫), p121-122
*4 『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』, p351-352
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