18世紀、中国は「銀の輸出国」でした(*1)。しかし18世紀以前の中国は「銀の輸入国」でした(*1)。当時の中国は「経済大国」であり(*2)、絹や陶磁器等を輸出し(*3)、対価として銀を受け取っていました。
加えて、他地域に比し中国が銀を「高く」評価していたことも、多量の銀が中国に流入した要因でした(*2)。1592年から17世紀初頭の間、中国の広東における「金と銀の比価」は「1対5.5」から「1対7」でした(*2)。つまり広東では「1個の金」が「5.5~7個の銀」と交換されていました。
一方、同時期のスペインにおける「金と銀の比価」は「1対12」から「1対14」でした(*2)。つまりスペインでは「1個の金」が「12~14個の銀」と交換されていました。
相対的に見ると、中国では「金が安く銀が高い」傾向にある一方、スペインでは「金が高く銀が安い」傾向にありました。「金と銀の比価」の地域差があったことが分かります。
仮に17世紀初頭スペインの商人が「7個の銀」を広東に持って行き、「1個の金」と交換してもらったとします。後にスペイン商人は「1個の金」をスペインに持ち帰り、「14個の銀」と交換してもらったとします。以上の取引におけるスペイン商人の売上は「14個の銀」で、利益は「7個の銀」となります(輸送コスト等を無視します)。以上の取引において、スペイン商人はただ「銀を中国に持って行く」「金をスペインに持ち帰る」という2つの活動だけで、利益を得ています。
「金と銀の比価」の地域差は、当時の商人達に多量の銀を中国に運ばせたと考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『海洋帝国興隆史 ヨーロッパ・海・近代世界システム』(玉木俊明、2019年、講談社選書メチエ), p167-168
*2 『海洋帝国興隆史 ヨーロッパ・海・近代世界システム』, p145-147
*3 『海洋帝国興隆史 ヨーロッパ・海・近代世界システム』, p142
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