14~16世紀、東アジア沿岸で「倭寇」という組織が活動しました(*1)。明王朝時代(1368~1644年)の1374年、明王朝は全ての貿易管理機関(市舶司)を廃止しました(*2)。市舶司の廃止により、民間の貿易は禁止されました(*2)。代わりに、明王朝では「朝貢貿易」という行政機関同士の貿易だけが認められました(*2)。
南宋から元代には、中国東南沿岸は海外貿易を盛んに行っていました(*1)。民間側の貿易需要がある中での禁止措置は、東アジアにおいて「密貿易」を生み出しました。倭寇は密貿易の組織でした(*1)。
倭寇は「前期」「後期」に分けられます(*1)。前期倭寇(14世紀)の主な担い手は、主に日本人でした (*1) 。前期倭寇の活動範囲は、朝鮮半島や華北沿岸でした(*1)。後期倭寇(16世紀)の担い手は、主に中国人と日本人でした (*1) 。後期倭寇の活動範囲は、中国東南沿岸でした(*1)。
密貿易組織は、治安機関からの「取締り対象」となります。密貿易組織は自ずと「武装化」します。倭寇も武装しており、時に活動範囲において「略奪組織」と化しました(*1)。倭寇の実態は「密貿易組織」兼「略奪組織」でした。
16世紀の後期倭寇の主要拠点として知られたのが、月港(福建漳州)と双嶼(浙江舟山列島)でした(*3)。1540年以降ポルトガル人勢力が双嶼で活動し始めました(*4)。ポルトガルは1511年マラッカ(マレーシア)を占領するなど、以前から東アジアに進出していました(*4)。ポルトガル人勢力は双嶼活動前後から、福建沿海で密貿易を展開していました(*4)。当時、ポルトガル人勢力も東アジアにおける密貿易の「プレーヤー」だったことが分かります。
後期倭寇の代表的な頭領として、王直という人物がいました(*4)。王直は元々、徽州の塩商でしたが、後に密貿易の活動を始めました(*4)。1544年王直は双嶼で活動をし始め、以後頭角を現していきました(*4)。1553年明軍の攻撃を受け、王直は舟山列島から脱出、五島列島と平戸に活動拠点を移しました(*4)。中国と日本の両方に活動拠点を築いたことから、王直の活動範囲が広大であったことが分かります。
1557年王直は明朝に投降、2年後の1559年処刑されました(*4)。明側は王直に投降を促した時、「倭寇退治の協力」をすれば、舟山列島を拠点に日本との貿易を王直に認めるという約束をしていました(*4)。王直は騙された格好です。1560年代以降、倭寇の活動は停滞し始めました(*4)。
<引用・参考文献>
*1 『世界史リブレット108 徽州商人と明清中国』(中島楽章、2015年、山川出版社), p13-14
*2 『陸海の交錯 明朝の興亡 シリーズ 中国の歴史④』(檀上寛、2020年、岩波新書), p48-50
*3 『陸海の交錯 明朝の興亡 シリーズ 中国の歴史④』, p127-128
*4 『世界史リブレット108 徽州商人と明清中国』, p44-46
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