アヘンの密貿易を巡り清朝とイギリスの間で、1840~1842年中国を戦場とする武力衝突(アヘン戦争)がありました(*1)。アヘン戦争は清朝の敗北により終了しました(*1)。
アヘン戦争に至った背景には、19世紀以降の中国におけるアヘン密輸量の増加がありました(*2)。当時、イギリスの「地方貿易商人」がアヘンを密かに中国に持ち込んでいました(*2)。中国側はアヘン購入時、馬蹄銀などの銀で支払いをしていました (*3)。
結果、中国から大量の銀が流出しました(*3)。清朝の納税者は、税金を銀で納めていました (*3)。国内の銀不足は、納税システムの弱体化を意味しました(*3)。清朝にとって、アヘン密輸量の増加は看過できない問題でした。
19世紀以降の中国におけるアヘン密輸量増加の裏には、インドにおける「アヘンの価格下落」がありました(*2)。当時のインドは、イギリスの東インド会社がベンガルの支配権を持つ(1757年以降)など、イギリスの強い影響下にありました(*2)。
当時のインドにおいて、デカン高原や東部でアヘンが生産されており、生産地間の競争が激化していました(*2)。競争により生産量も増加した結果、アヘンの価格は下落していったと考えられます。19世紀以降の中国におけるアヘン密輸量増加は、インドにおけるアヘン生産量の増加が背景にあったと考えられます。
中国では唐や宋の時代から、アヘンは薬剤として用いられていました(*2)。17世紀から、アヘンの吸飲が始まりました(*2)。アヘンは、未成熟のケシの実から取り出した汁を原料にします(*2)。アヘンの効能としては、「抑制作用」があります(*4)。
雍正帝時代(1722~1735年)の1729年、清朝はアヘン販売とアヘン窟(アヘン吸飲の店)経営を禁止しました(*2)。嘉慶帝時代(1796~1820年)においても、清朝はアヘン貿易を禁止するなど、アヘン禁止を打ち出していました(*2)。
1729年以降、中国においてアヘンは「取締りの対象」であったことが分かります。イギリスの地方貿易商人は表立ってアヘンを中国に持ち運ぶことはできませんでした。密輸方法の1つとして、「沖合停泊中の船での受け渡し」がありました(*5)。沖合停泊中の船までは、清朝の監視は行き届きません。
珠江河口の沖合(零丁洋)が「受け渡し場所」として知られていました(*5)。地方貿易商人の船は沖合停泊中の「倉庫用の船」にアヘンをおろし、後に中国側の密輸業者が高速の船で沖合まで出て「倉庫用の船」からアヘンを回収しました(*5)。回収前に中国側の密輸業者は、広州のイギリス商館にて、銀でアヘン代金を支払いました (*5)。「商品の受け渡し場所」(沖合)と「代金の支払い場所」(イギリス商館)が異なっていました。当時のアヘンの密貿易に携わる人々が取締りから逃れる為、様々な工夫をしていたことが窺えます。
地方貿易商人はアヘンの対価として銀を受け取った後、東インド会社発行の為替手形と交換しました(*2)。後に地方貿易商人は為替手形を、現金化しました(*2)。東インド会社側は、地方貿易商人からの銀を用いて、中国で茶を購入しイギリスに運びました(*2)。東インド会社側はイギリスで茶を販売し、得られた代金で、発行した為替手形(地方貿易商人に渡した手形)の決済をしました(*2)。
地方貿易商人は「アヘン」を中国に持ち運び、中国から「為替手形」を持ち帰りました。一方、東インド会社は中国から「茶」を持ち帰りました。両者とも船に銀を載せていませんでした。
<引用・参考文献>
*1 『清朝と近代世界19世紀 シリーズ 中国近現代史①』(吉澤誠一郎、2018年、岩波新書), p54-55
*2 『清朝と近代世界19世紀 シリーズ 中国近現代史①』, p38-40
*3 『清朝と近代世界19世紀 シリーズ 中国近現代史①』, p45
*4 『薬物とセックス』(溝口敦、2016年、新潮新書), p76-79
*5 『清朝と近代世界19世紀 シリーズ 中国近現代史①』, p43
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