「住吉会」2次団体「青田会」の組織名は「青田富太郎」に由来していました(*1)。1958年「「港会」(現在の住吉会)が結成されました(*2)。港会初代会長には青田富太郎が就きました(*2)。青田富太郎は「住吉一家」の貸元でした(*3)。
住吉一家は、港会の構成団体の1つでした(*3)。
貸元とは、元々「賭場で廻銭を客に貸す役割の者」という意味でしたが、転じて「一家から、縄張りを預かって、死守する者」を指すようになりました(*4)。
大規模な一家であれば、貸元は20人以上いました(*5)。博徒業界における縄張りとは「賭場開帳権を行使できる地理的範囲」を意味しました(*6)。昔は貸元以上の立場になって、初めて「親分」と呼ばれました(*4)。貸元は、賭場開帳頻度の設定等をしていました(*5)。また貸元は、賭場での収益から経費を引いた純利益の一部(10~50%といわれていました)を一家のトップ(総長)に上納しました(*5)。
貸元は、一家から預かった「一部の縄張り」における賭博事業の管理・運営面の最高責任者であったと考えられます。
青田富太郎は、住吉一家の貸元であったことから、住吉一家内では最高幹部クラスであったことが分かります。
1964年港会は「住吉会」に改称しました(*2)。また青田富太郎は「幸平一家十代目総長」を務めていた時もありました(*2)。
港会結成時の1958年、幸平一家総長は「九代目の本橋政夫」でした(*1)。以上から、青田富太郎は「住吉一家貸元」→「港会初代会長」→「幸平一家十代目総長」という順に経歴を積んでいったと考えられます。
後に、児玉明が「青田二代目」を継承しました(*1)。「青田二代目」が名称だけを指すのか、「青田富太郎の組織」を指すのかは不明です。児玉明は青田富太郎に関係する組織を集め、青田会を結成しました(*1)。児玉明が青田会の「設立者」といえます。児玉明は「十日会」(兄弟分の集まり)も率いていました(*3)。
<引用・参考文献>
*1 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p158-159
*2 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p44-45
*3 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p192-193
*4 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p17
*5 『親分 実録日本俠客伝①』, p194
*6 『現代ヤクザ大事典』,p61
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