愛媛の松山連合会

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 1989年、愛媛県松山市を拠点とする5つのヤクザ組織により、松山連合会が結成されました(*1)。松山連合会を構成したのは、岡本会、兵藤会、伊藤会、石鉄会、大西組の5団体でした(*1)。岡本会(当時は岡本組)と兵藤会(当時は兵藤組)は、戦後松山市で勢力を張っていた郷田会(本多会2次団体)の下部団体でした (*2)。1964年6月松山市において、郷田会は山口組2次団体矢嶋組と抗争をしました(*2)。矢嶋組は元々今治市を拠点としていまいた(*2)。矢嶋組の松山市進出が抗争の遠因でした(*2)。抗争後、郷田会トップの郷田昇は引退、郷田会は解散しました(*2)。

 郷田会解散後、岡本組は山口組2次団体・菅谷組傘下に入りました(*3)。菅谷組は山口組内において1959年結成されました(*4)。菅谷組は以降、山口組の勢力拡張運動を担う2次団体として、各地に進出していきました(*4)。1973年時の菅谷組の総構成員は約1,200人でした(*4)。岡本組トップ岡本雅博は菅谷組内では「若頭補佐」の地位にいました(*5)。岡本雅博が「菅谷組執行部の一員」だったことが分かります。

 1977年菅谷組トップの菅谷政雄が山口組から絶縁されました(*4)。以後、菅谷組は独立団体として活動しましたが、1981年解散に至りました(*4)。上部団体・菅谷組の解散により、1981年以降、岡本会(旧岡本組)は独立団体として活動していきました(*5)。

 兵藤会は上部団体・郷田会解散後、独立団体として、松山市内を拠点に活動していました(*2)。1977年8~10月、兵藤会は山口組2次団体・加茂田組と抗争をしました(*2)。

 伊藤会と石鉄会は、戦後の松山市で活動した渡部組を出身母体としました(*1)。1961年内部抗争により、渡部組は瓦解しました(*1)。旧渡部組の勢力を一部引き継いだのが、伊藤会と石鉄会でした(*1)。伊藤会は1969年、石鉄会は1976年結成されました(*1)。

 石鉄会の前身は柳川会でした(*1)。1973年1月、柳川会トップの柳川三逑が伊藤会ヒットマンにより松山市内で射殺されました(*1)。渡部組内部抗争の時から、伊藤会トップ伊藤武史と柳川会トップ柳川三逑は対立関係にありました(*1)。

 伊藤会は兵藤会など地元組織と協調する一方、山口組とは距離を置いていました(*1)。一方、柳川会は山口組と親交を結んでいました(*1)。「地元勢力とのつながりを重要視する伊藤会」と「山口組とのつながりを重要視する柳川会」という構図が当時ありました。

 トップ射殺後の1973年10月柳川会は解散しました(*1)。3年後の1976年、柳川三逑の実弟や柳川会幹部が石鉄会を結成しました(*1)。1981年3月、伊藤会トップ伊藤武史が松山市内で石鉄会ヒットマンにより射殺されました(*1)。伊藤会と石鉄会(旧柳川会)は、渡部組という同じ出身母体でありながらも、互いに相手トップを殺害するまでの敵対関係にあったことが分かります。

 大西組は「統風三友会」という1次団体(*6)に属していました(*5)。1989年松山連合会結成時、先述の石鉄会は「統風三友会石鉄会」という名前でした(*5)。石鉄会も「統風三友会」という1次団体に属していたことが分かります。

 1989年松山連合会は、同年発足した「西日本二十日会」(西日本ヤクザ組織の親睦団体)に参加しました(*5)。しかし1991年松山連合会は山口組の傘下に入り、山口組2次団体となりました(*5)。山口組入りした後、松山連合会は「松山会」に改称しました(*3)。2012年松山会二代目会長の正田悟が引退した際、松山会勢力は2次団体・矢嶋組に移籍しました(*7)。

<引用・参考文献>

*1 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p83-87

*2 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p70-72,99-103

*3『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p114

*4『山口組の100年 完全データBOOK』, p431

*5 『洋泉社MOOK・山口組・東京戦争』(有限会社創雄社編、2005年、洋泉社), p210-212

*6 『実話時代』2019年9月号, p37

*7 『六代目山口組10年史』(2015年、メディアックス), p115

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