1930~1939年の関口一門の活動範囲

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 テキヤ組織「極東会」の源流は、関口愛治(1897年生まれ)によって作られた勢力(関口一門)です(*1)。初めて関口愛治が結成した組織として知られるのが「極東秘密探査局」でした(*1)。極東秘密探査局は東京・大塚を拠点にする探偵社であり、1927年設立されました(*1)。

 関口愛治は若かりし頃(1910~1914年)、横浜のテキヤ組織「飴徳一家」の桜井庄之助のもとで演歌師として活動していました(*2)。当時の演歌師はテキヤ組織の下で活動していたました(*2)。1914年(大正三年)関口愛治は横浜から浅草に移り、翌1915年(大正四年)桜井庄之助の子分となりました(*2)。1921年(大正十年)桜井庄之助は飴徳一家から独立、「桜井一家」を興しました(*2)。

 関口愛治により率いられた勢力(関口一門)は「極東秘密探査局」(1927年設立)に始まり、「極東クラブ」「極東愛桜会」などに組織名を変えていきました(*1)。以上から、関口愛治は桜井一家から「一家名乗り」もしくは「分家名乗り」する形で、自身の組織(極東秘密探査局等)を立ち上げていったと考えられます。1961年関口一門は桜井一家(沼津市)と飴徳一家(横浜市)等と合併、「極東愛桜連合会」を結成するに至りました(*1)。

 関口愛治は極東秘密探査局設立の3年後、1930年飯島一家小倉の組員殺害に関わった罪(殺人教唆)により、1939年まで刑に服すことになりました(*4)。1939年までの間、関口一門は山口城司(極東会二代目に位置付けられる人物)により率いられました(*5)。当初、内田正雄(関口愛治の舎弟)が関口一門を率いていましたが、後に「関口愛治の代行」の座を山口城司に取って代わられました(*5)。

 関口一門の「一門」ですが、テキヤ組織に関する書籍において「本家」及び「同じ系統の組織等」の総称として「一門」という言葉が使われていました(*6)。

 関口一門は、「1つの組織」ではなく、派閥もしくはグループみたいな形だったと考えられます。

 1930~1939年の間、山口城司自ら「鈴川の毘沙門」(静岡県富士市の妙法寺)、「三島大社」(静岡県三島市の三嶋大社)、「大宮の十日町恵比須」(埼玉県さいたま市の氷川神社)、「川越の大師」(埼玉県川越市の喜多院)などの大きな高市(縁日や祭り)(*7)に商売に行っていました(*5)。妙法寺と喜多院は「寺」で、三嶋大社と氷川神社は「神社」です。当時(1930~1939年)、関口一門が静岡県東部や埼玉県を活動範囲にしていたことが分かります。

 関口愛治の不在時、関口愛治の兄弟分の西岡清五郎(東京盛代一家)、能村菊次郎(丁字家佐橋二代目)が山口城司を支援しました(*5)。他組織の両名と関口愛治との兄弟関係が、「五分兄弟」(同格の兄弟)(*8)だったのか、上下関係のある兄弟(兄舎弟)だったのかは分かりません。

<引用・参考文献>

*1 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p8-14,26

*2 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p31-36

*3 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p123-124

*4 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p50-51

*5 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p62-63

*6 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p28

*7 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p155

*8 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p91

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