テキヤ組織は「高市」(タカマチ)と呼ばれる縁日や祭りで商売をしてきました(*1)。高市の場を管理する者は、「庭主(ニワヌシ)」または「世話人」と呼ばれました(*1)。群馬県前橋市で毎年1月9日に行われた初市の庭主は、1957年以降「寄居分家」の飯久保武総長でした(*2)。1,000ほどの露店が初市に出店しました(*2)。
庭主は露店配置決めの権限を持っていました(*1)。初市の場合、寄居分家が1,000店の配置を決めていました(*2)。露店配置決めは「ショバ割り」(*1)、「ミセワリ」(*3)などと呼ばれていました。初市のように、庭主が1団体(寄居分家)だけの場所は「イッポン」と呼ばれました(*3)。
一方「複数の庭主」がいる高市もありました(*3)。複数団体が庭主を務めた場所は「合庭」(アイニワ)と呼ばれました(*3)。テキヤ組織の露店営業には主に「コロビ」「サンズン」の2つがありました(*4)。
コロビとは、地面に茣蓙(ゴザ)を敷いて、その茣蓙の上に商品を並べて、口上をつけて販売する形態を指しました(*5)。商品によっては口上なしのコロビもありました(*5)。
サンズンとは「組み立て式屋台(売台)で口上をつけて、もしくは口上をつけないで物を売る形態」でした(*4) (*5)。コロビの口上に比し、サンズンの口上は静かでした(*5)。転じて「組み立て式屋台」自体をサンズンと呼んでいました(*6)。1986年時、組み立て式屋台の購入価格は15~20万円ぐらいでした(*6)。サンズンという名前は、組み立て式屋台の寸法が「三尺(サンシャク)三寸(サンズン)」だったことに由来するといわれています(*5)。またサンズンには「軒下三寸はなれて露店」の意味もありました(*5)。
昔のテキヤ勢力はコロビもしくはサンズンのどちらかに特化した場合が多かったです(*7)。「極東」「飯島」「寄居」「桝屋」「丁字家」一門の源流はコロビで稼いでいました(*7)。
合庭の長所は、露店の内容が多岐に渡ったことでした(*8)。コロビの組織だけが庭主だった場合、露店の割合はコロビに偏ってしまいます。庭主の構成員の露店はコロビです。高市には、庭主以外のテキヤ組織も、露店を出しました(*8)。庭主は付き合いのある組織に出店を認める為、コロビの組織に偏って出店させてしまうと考えられます。一方、合庭の場合、庭主が複数団体の為、露店の多様性が担保されていたのです。
有名な高市がイッポンの場合、庭主は多くのテキヤ組織とネットワークを有していたと推測されます。秩父の夜祭は関東有数の高市と知られています(*9)。秩父の夜祭の中心地・秩父神社の庭主は、寄居分家の飯久保武総長(前橋の初市の庭主と同一人物)でした(*9)。寄居分家は秩父の夜祭に丁字家系、極東系、飯島系、「源清田」系などのテキヤ組織に露店を出させていました(*9)。寄居分家が当時、多くのネットワークを有していたことが分かります。
<引用・参考文献>
*1 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p154-157
*2 『ヤクザ大辞典 親分への道』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p155-168
*3 『テキヤはどこからやってくるのか? 露露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書), p146-147
*4 『ヤクザ大全 その知られざる実態』(山平重樹、1999年、幻冬舎アウトロー文庫), p51
*5 『生活史叢書3 てきや(香具師)の生活』(添田知道、1973年、雄山閣),p144-145
*6 『テキヤのマネー学』(監修:仲村雅彦、取材・構成:高橋豊、1986年、東京三世社),p68,82
*7 『新・ヤクザという生き方』「全丁字家誠心会芝山一家物語」(朝倉喬司、1998年、宝島社文庫), p224
*8 『テキヤはどこからやってくるのか? 露露店商いの近現代を辿る』, p158-161
*9 『新・ヤクザという生き方』「全丁字家誠心会芝山一家物語」, p204-205
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