二代目山口組山口登組長体制時の若頭

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 二代目山口組山口登組長体制時(在任期間1925~1942年)(*1)、澄田寿三が最後の若頭を務めました(*2)。山口登組長体制時において澄田寿三以前の若頭として、知られている限りで、大長一男がいました(*3)。1942年山口登は脳出血により死去しました(*4)。山口登の死去後、山口組はトップを置かず、舎弟頭・森川盛之助、舎弟・湊芳治らにより運営される集団指導体制をとりました(*3)。1946年田岡一雄が三代目山口組組長に就任しました(*5)。

 田岡一雄は1937年同じ山口組組員を殺害した罪により、1943年まで刑に服していました(*6)。1942年山口登死去時、田岡一雄は刑務所にいました。田岡一雄により殺害された組員は、当時の若頭・大長一男の実弟でした(*7)。大長一男は実弟殺害以後、山口組を去りました(*3)。

 山口登死去後、若頭・澄田寿三も山口組を抜けました(*3)。太平洋戦争終了(1945年)後、澄田寿三は大阪・築港で澄田組を結成しました(*8)。戦後、築港で活動した組織としては、他に大野一家がありました(*9)。大野一家は築港で土木請負業をしていました(*9)。澄田組は後に澄田会に改称(*10)、長く独立団体として活動しました(*8)。1990年澄田会は山口組の傘下に入り、「山口組2次団体」として活動していくことになりました(*8)。澄田会が3次団体ではなく、2次団体として山口組に加われたことから、当時の澄田会が一定の勢力を有していたことが考えられます。

 澄田会トップ・竹森竜治(四代目澄田会会長)が2012年山口組から除籍され、澄田会は解散に至りました(*8)。2015年8月山口組が分裂した後、同年10月竹森竜治は澄田会を復活させ、神戸山口組に加わりました(*8)。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p9-10

*2 『山口組若頭』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p8-9

*3 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p77

*4 『完全保存版 TOWN MOOK 山口組 百年の血風録』(週刊アサヒ芸能・特別編集、2015年、徳間書店), p28

*5 『山口組若頭』, p16

*6 『完全保存版 TOWN MOOK 山口組 百年の血風録』, p36-37

*7 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p70

*8 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p110

*9 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』(木村勝美、2009年、メディアックス), p48

*10 『実話時代』2019年9月号, p36

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