太平洋戦争が終了した1945年8月から1950年頃まで、日本には闇市がありました(*1)。1946年3月3日公布の物価統制令により、日本政府は食料、衣料、日用品の販売を統制機関にのみ許可し、販売価格を「公定価格」としました(*2)。公定価格とは、政府が事前に決めた価格のことです(*3)。統制機関以外は、食料、衣料、日用品の販売が禁止されました。統制機関の販売経路以外で販売された商品は「ヤミ」と呼ばれました(*2)。自由な値付けが「違法行為」だったのです。
闇市は、文字通りヤミの商品を取り扱う違法領域の市場でした。闇市の時代(1945~1950年頃)、ヤミの日用品価格は公定価格に比し数倍~百倍でした(*4)。価格の開きは、日用品の公定価格が、不当に低く設定されていたことが窺えます。また公定価格商品の供給量が足りていなかったことも推測されます。公定価格商品が充分供給されていれば、ヤミ商品の出番はなかったはずです。背景には生産者が、統制機関側ではなく、「高く買ってくれる」闇市側に優先的に製品を供給していたことが考えられます。闇市は統制機関よりも「仕入れる力」があった為、商品供給力に長けていたと考えられます。
日本は戦時中から、価格等統制令により商品価格が統制されていました(*2)。価格等統制令の改訂版が、1946年3月3日公布の物価統制令でした(*2)。しかし1947年10月果物などの132品目が公定価格廃止となりました(*2)。果物などの132品目は以後、自由な価格で販売されることが可能となりました。1949年4月野菜、9月魚類、1950年9月綿製品が統制から外され、1950年代には大半の商品が統制解除されました(*2)。
統制解除により、闇市以外の販売者が増え、販売経路は多様化していきました。闇市のみが商品供給力を持っていた時代は終わりました。1950年以降、闇市は消滅しました(*5)。
<引用・参考文献>
*1 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫), p150-167
*2 『東京のヤミ市』, p206-207
*3 『東京のヤミ市』, p6
*4 『東京のヤミ市』, p116
*5 『東京のヤミ市』, p188
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