「極東関口谷畑二代目佐藤会」(佐藤会)は、東北地方における「関口一門」(関口愛治系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)内の有力組織でした(*1)。
佐藤会前身の「佐藤組」は、1962年秋田県本荘市(現在の由利本荘市)で佐藤儀一によって結成されました(*1)。佐藤儀一1928年秋田県本荘市に生まれ、17歳の時に「極東関口谷畑初代」の谷畑松五郎の子分になりました(*1)。
佐藤儀一の実父は、本荘市では有名な博徒の親分(佐藤儀三郎)でした(*1)。一方、テキヤ組織の親分となった谷畑松五郎は、関口愛治(関口一門の始祖)から「一家名乗り」を許された為、自身のテキヤ組織を立ち上げ、青森県五所川原市で活動していました(*1)。
佐藤儀一は、谷畑初代の稼ぎ込みとして、北海道、東北、関東、北陸の各地を回り、テキヤ稼業の修行を積みました(*1)。
1962年佐藤儀一は谷畑二代目を継承しました(*1)。同時に佐藤儀一は自身の組織「佐藤組」を結成しました(*1)。当時の佐藤組の「版図」は、本荘市と五所川原市でした(*1)。
佐藤組は秋田市への進出を図り、1971年秋田市に事務所を置きました(*1)。1974年秋田県内のテキヤ業界では「源清田」系4団体180人、「会津家」系4団体150人、「姉ヶ崎系」5団体120人が活動していました(*1)。一方1974年時秋田県内において佐藤組の構成員数は40人でした(*1)。
佐藤組は1974年5月会津家系、1975年4月源清田系「銭谷一家」(秋田県能代市)と、それぞれ抗争をしました(*1)。銭谷一家との抗争では、同年(1975年)7月源清田会系「島影一家」(新潟県長岡市)との争いにまで発展、佐藤組は島影一家構成員を銃撃、重傷に至らせました(*1)。佐藤組は、抗争において敵対構成員に向けて銃撃していたことから、好戦的な組織であったことが窺えます。
1976年1月佐藤組は源清田会系「松田阿部義会」、同年3月島影一家、同年4月住吉連合会系組織と抗争をしました(*1)。警察当局は「佐藤組壊滅第三次頂上作戦」を実施、1976年9月佐藤儀一を恐喝の疑いで逮捕しました(*1)。佐藤儀一は後に無罪となりました(*1)。この頃佐藤組加入を望む他組織の組員が増え、佐藤組は勢力を拡大させていきました(*1)。
1978年佐藤組は、山形市のテキヤ組織「奥州山口一家」構成員の引き抜きを図ったことで、奥州山口一家と対立しました(*1)。結果、佐藤組による引き抜きが認められる形で、事態は終結しました(*1)。当時の佐藤組が他団体に無理を認めさせる力を持っていたことが読み取れます。
1978年5月佐藤組は秋田県大館市を拠点にする姉ヶ崎系「八神一家」と、縄張りを巡り抗争をしました(*1)。同年(1978年)7月、抗争中において佐藤儀一は姉ヶ崎系構成員から銃撃を受け、負傷しました(*1)。その後、警察当局により佐藤儀一は逮捕され、服役生活に入りました(*1)。
佐藤組が抗争を重ねていったことが分かります。
1982年佐藤儀一は出所し、翌1983年秋田市に新本部を設置、組織名を「佐藤会」に改めさせました(*1)。最盛期の佐藤会は青森県、秋田県、山形県の東北3県を活動範囲とし、青森県には五所川原市、弘前市、青森市、野辺地町、秋田県には秋田市、本荘市、横手市、山形県には山形市、天童市、鶴岡市などに支部を置いていました(*2)。佐藤会の直系組長数(2次団体トップ)は28人で、構成員数は350~400人といわれました(*2)。
1984年9~11月佐藤会は青森県「梅家連合会」と抗争をしました(*1)。佐藤会2次団体「山新組」の青森市内進出が、梅家連合会(青森県弘前市)を刺激させたことが背景にありました(*1)。山新組は元々、五所川原市を拠点に活動していました(*3)。
1986年東北地方におけるテキヤ17家名は親睦団体「東北神農同志会」を設立しました(*1)。極東系勢力も東北神農同志会に加盟しました(*1)。先述したように、佐藤会は関口一門であった為、この極東系勢力を構成していました。
1987年8月2日午後1時ごろ、青森市浅虫温泉の市営駐車場で佐藤会と梅家連合会の構成員同士が衝突しました(*3)。佐藤会側が発砲し、梅家連合会構成員3人が被弾しました(*3)。被弾した3人のうち、2人は死亡、1人は重傷を負いました(*3)。
事件が起きた日の夜の浅虫温泉は、翌日開催される青森ねぶた祭の前夜祭として、花火大会が開かれる予定でした(*3)。花火大会の庭主は、梅家連合会の者でした(*3)。庭主は、露店配置の裁量権を持っていました(*4)。
事件の背景には、梅家連合会が稲川会加入を表明したことがありました(*3)。梅家連合会も加盟する東北神農同志会の会則二十七条には「広域博徒組織の傘下に入った組織は庭主の権利を放棄する」という内容がありました(*3)。稲川会は広域博徒系組織に該当した為、東北神農同志会内の約束に従えば、梅家連合会は庭主の権利を放棄しなければなりませんでした。梅家連合会はその約束を守る様子がなく、佐藤会が「東北神農同志会の代表」として梅家連合会側に攻撃を仕掛けたと考えられます。
1989年11月、佐藤会2次団体「川村組」(山形市)は山口組系組織と抗争を起こしました(*1)。この抗争では、佐藤会の上部団体「極東関口会」の東京勢力の事務所も銃撃されるなど、抗争は広域的に展開されました(*2)。翌12月、和解が成立し、抗争は終結しました(*1)。
1990年佐藤会内で主流派と反主流派が対立し、佐藤会は分裂しました(*1)。反主流派のグループは山口組2次団体「芳菱会」に入りました(*1)。1992年7月佐藤儀一は佐藤会を解散、引退しました(*1)。
一方の主流派はさらに2つに分かれました(*1)。一方の勢力は山口組2次団体「山健組」に入り、もう一方の勢力は山口組2次団体「弘道会」に入りました(*1)。結果的に、佐藤会は山口組に吸収された形です。
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はじめてのヤクザ組織解剖学2: 直参制度、ミカジメ料とは何か
<引用・参考文献>
*1 『実話時代』2018年3月号「シリーズ/組織と闘将 第三回 極東関口谷畑二代目佐藤会総長 佐藤儀一」(本郷海), p45-53
*2 『洋泉社MOOK・「山口組・血の四〇〇〇日」』「一九九〇年冬 山口組VS極東関口組」(山平重樹、2000年、洋泉社), p132-136
*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p84-87
*4 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p157
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