太平洋戦争終了(1945年)以降、東京の上野広小路(台東区)に闇市が生まれました(*1)。上野広小路の闇市は、都内の他の闇市同様、1950年に消滅しました(*2)。
1946年秋「下谷引揚者会」が、上野広小路における「上野駅から御徒町駅までのガード下」を東京都から借りました(*1)。引揚者は「海外在住していたものの、敗戦により帰国した日本人」のことを意味しました(*3)。下谷引揚者会は、引揚者団体の1つでした(*1)。
太平洋戦争末期、東京都は「上野駅から御徒町駅までのガード下」の変電所を守る目的で、周囲を強制疎開させました(*1)。1946年秋まで「上野駅から御徒町駅までのガード下」は東京都の管理下にありました(*1)。
1946年秋以降、下谷引揚者会の主導により「上野駅から御徒町駅までのガード下」は飴屋の露店街に変わりました(*1)。当時、300軒近い飴屋が立ち並びました(*1)。下谷引揚者会がテキヤ組織の傘下に入ることはなかったようです(*1)。飴屋の露店街は後に、現在の「アメ横」となります(*1)。アメ横の「アメ」は、飴屋から由来していると考えられます(*1)。「横」は横丁の略です。
「アメリカ」も、アメ横の名前の由来と考えられています(*1)。上野駅から御徒町駅までのガード下の闇市(アメ横の闇市)では、占領軍の横流しや密輸による経路で、外国物資が盛んに売買されていました(*1)。1953年の朝鮮戦争終了後、アメ横は「外国製品市場」としても発展していきました(*1)。闇市時代からアメ横には、外国製品を扱う商人が行き来していたと考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫), p33-37
*2 『東京のヤミ市』, p188
*3 『東京のヤミ市』, p207
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