「貸元」という役職を置いているヤクザ組織は、元博徒組織である可能性が高いです。貸元は、主に関東の博徒系組織で使われてきた言葉でした(*1)。貸元という名前は「客に賭金を貸していた」ことに由来するといわれていました(*2)。また貸元は「縄張りを預かり、死守する者」という意味も持つようになりました(*1)。貸元は「縄張りの監督」を任されていたのです。
博徒組織における縄張りとは「賭場の開帳権を行使できる地理的範囲」のことでした(*3)。
博徒組織において貸元より上位にいたのが「総長」でした(*1)。博徒組織において総長が「最高位」でした(*1)。
大規模の博徒組織であれば、貸元は20人以上いました(*4)。総長は各貸元に縄張りの一部を預けていました(*1)。総長が貸元側に「縄張りの監督」を任せていたのです。各貸元は、売上から経費を引いた純利益の10~50%を、総長に上納しました(*4)。
貸元は「親分」とも呼ばれていました(*1)。貸元は「賭博の主催者」であり、「テラ銭の受領者」でした(*2)。賭場開帳頻度(賭場)の設定など、縄張り内の賭博事業運営は、貸元の裁量に任されていました(*4)。
貸元は、縄張り内における賭博事業の管理・運営面の最高責任者であったと考えられます。
貸元の下にいたのが「代貸」でした(*1)。代貸は「賭場の最高責任者」であり、現場を仕切っていました (*1)。飲食店に例えるなら、代貸は「雇われ店長」の意味に近かったと考えられます。関西において代貸に該当する者は「盆守り」と呼ばれることが多かったようです(*1)。関西において賭場は「盆中」と呼ばれ、常設賭場は「常盆」と呼ばれていました(*5)。
実力のある貸元は、4~5人の代貸を擁していました(*4)。それは「1つの賭場を4~5人の代貸で回していた」もしくは「4~5つの賭場があった」ことを意味していたのだと考えられます。
博徒組織において総長は貸元側に「縄張りの監督」を任し、貸元は代貸側に「賭場の監督」を任していたのです。
1964年以降、賭博において非現行検挙が実施されました(*6)。結果、博徒組織の常設賭場数は減少していったようです(*7)。
<引用・参考文献>
*1 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p16-17
*2 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p115
*3 『現代ヤクザ大事典』, p61
*4 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p194
*5 『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(鈴木智彦、2011年、文春新書),p194-195
*6 『ヤクザ大辞典』, p108-109
*7 『ヤクザ大辞典』, p111
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