露店商売の1つとして、バナナの叩き売りがありました(*1)。1908年(明治四十一年)門司市(現在の北九州市)の桟橋通りにてバナナの叩き売りが初めて行われました(*2)。その後、バナナの叩き売りは全国に広がりました(*2)。しかし第2次世界大戦が激しくなると、バナナの輸入は困難となりました(*2)。
1908年時、関門トンネル(本州の下関と九州の門司を結ぶ海底トンネル)はまだ開通していませんでした。
1901年(明治三十四年)5月27日、馬関(現在の下関)~門司間の航路が開設されました(*3)。1942年(昭和十七年)6月、関門トンネルが単線開通しました(*4)。関門トンネルでは同年(1942年)7月貨物輸送が、11月旅客輸送が開始しました(*4)。
第2次世界大戦終了(1945年)後にバナの輸入が再開しましたが、門司ではバナナの叩き売りが再開することはなかったです(*2)。一方、熊本、佐賀、久留米、福岡等ではバナナの叩き売りが見られました(*2)。
露店商人は、一般店舗に比し3~4割低い価格で、バナナを販売していました(*1)。低価格で販売できた要因として、露店営業における諸経費の低さ、バナナの供給過剰時期における仕入れがあったといわれています(*1)。
しかし次第にバナナの叩き売りは衰退しました(*2)。北園忠治(佐賀流バナナの叩き売りの伝承者)は衰退の要因を2つ挙げていました。1つは、他の諸物価が約20倍と高騰したのに対し、バナナの価格が三十数年間変わらなかったことです(*2)。結果、バナナの価格は相対的に低くなり、叩き売り師はバナナの販売だけでは、充分な収益を確保できなくなったのです。
もう1つが「優遇制度」の廃止でした(*2)。昔バナナの卸(問屋)は「2級品バナナの処分(売り捌き)」を叩き売り師に委託していました(*2)。2級品のバナナは、1級品のバナナよりも安かったです(*2)。また卸は一般店舗よりも安い価格でバナナを叩き売り師に供給していました(*2)。卸は叩き売り師を優遇していたのでした。しかしスーパーマーケットが出現すると、その優遇制度はなくなりました(*2)。
「ポッタリさん」と呼ばれた韓国の女性行商人が昔、日本で青いバナナを大量に仕入れて、韓国で売れば大きな収益を得たようです(*5)。昔の韓国においてバナナはあまり流通していなかったようです(*5)。ポッタリさんは下関~釜山間のフェリーで日韓を行き来していました(*5)。ポッタリさんは通常、韓国のりやキムチなどの食品、繊維製品などの雑貨を韓国から日本に持って来て、販売しました(*5)。一方、ポッタリさんは日本では化粧品、薬、菓子などを仕入れて、韓国に持ち帰って、販売しました(*5)。両国の税関は、関釜フェリーの乗客に対し、携帯品としての枠の範囲であれば、簡単な検査で対応していました(*5)。
下関~釜山間のフェリー(フェリー関釜)は1970年6月、就航しました(*6)。海運会社の関釜フェリーがフェリー関釜を運営していました(*6)。関釜フェリーは前年の1969年6月に設立されました(*6)。1983年5月、韓国側のフェリー釜関も就航を果しました(*6)。
<引用・参考文献>
*1 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p154-155
*2 『香具師はつらいよ』(北園忠治、1990年、葦書房),p87-89
*3 『キャンブックス 山陽鉄道物語 先駆的な営業施策を数多く導入した輝しい足跡』(長船友則、2008年、JTBパブリッシング),p196
*4 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』(老川慶喜、2016年、中公新書),p198-200
*5 『長距離フェリー50年の航跡 SHKライングループの挑戦』(編著:株式会社SHKライン、2018年、ダイヤモンド・ビジネス企画),p109-110
*6 『長距離フェリー50年の航跡 SHKライングループの挑戦』,p96-104
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