小西一家の傘下に入ったテキヤ組織

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 「山口組」三代目田岡一雄組長体制時(1946~1981年)(*1)、山口組は勢力を拡大し、その拡大に貢献した2次団体の1つが「小西一家」でした(*2)。小西一家は、田岡一雄の子分・小西音松をトップとする組織で、小西一家の構成員数は1,500名といわれた時もありました(*2)。

小西一家初代総長・小西音松は2002年、死去しました(*3)。小西音松死去後、小西一家では跡目が決まらず、2004年小西一家は「岸本組」(山口組2次団体)の傘下に入りました(*3) (*4)。2005年落合勇治が小西一家の二代目を継承、小西一家は山口組2次団体に再昇格しました(*3)。

 三代目田岡一雄組長体制時(1946~1981年)、小西一家は勢力を拡大させる中で、テキヤ組織を傘下に収めていました(*2)。小西一家の前身である「小西組」(*2)(組長は小西音松の実兄・小西豊勝)は、太平洋戦争終了(1945年)以降、大阪-別府間の関西汽船内で賭場を開帳していました (*5)。小西一家が純粋なテキヤ組織だったとは考えられません。

 各地のテキヤ組織が小西一家の傘下に入っていきました。1964年以前、京都のテキヤ組織「地蔵組」が小西一家の傘下に入りました(*6)。1966年テキヤ組織「早野会」が小西一家に入りました(*7) (*8)。早野会は明治時代(1868~1912年)に大阪の平野町で結成されました(*9)。早野会の結成者(初代)は、早野亀次郎でした(*9)。早野亀次郎は、島佐吉の子分でした(*9)。その島佐吉は、義太夫節(浄瑠璃の一種)の興行師でした(*9)。福原久義が早野会二代目(*9)、忠津秀三郎が早野会三代目(*9)、田井力造が早野会四代目(*7)を継承しました(*9)。先述したように1966年早野会は小西一家の傘下に入りました。早野会にとって1966年は四代目田井力造会長体制の時でした(*7)。

 1980年静岡県のテキヤ組織「大頭龍一家」が小西一家に入りました(*10)。大頭龍一家の初代は、大頭龍為五郎でした(*11)。初代・大頭龍為五郎は明治時代(1868~1912年)、静岡の昆沙門において采配をふっていました(*12)。おそらく大頭龍為五郎は、静岡の昆沙門の高市(たかまち)において重要な役割を果たしていたと考えられます。高市とは、社寺の祭礼や縁日に仮設される露店市のことでした(*13)。

 大頭龍一門(資料では「大東流」と記載されていた為、訂正しました)の勢力は「オートバイ曲乗り」(オートバイに乗っての曲芸)を手掛けていました(*14)。

  昭和時代(1926~1989年)初期、テキヤ組織「桜井一家」側の提案により、桜井一家、大頭龍一家、「霊岸島桝屋服部組」(浜松のテキヤ組織)の庭場が「区分け」されました(*15)。この区分けにより、大頭龍一家は富士川と大井川の間を庭場とすることになりました(*15)。

<引用・参考文献>

*1 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p18-21

*2 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、1998年、講談社+α文庫), p103

*3 『六代目山口組10年史』(2015年、メディアックス), p56

*4 『洋泉社MOOK・山口組・東京戦争』(有限会社創雄社編、2005年、洋泉社), p138-139

*5 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p157

*6 『血と抗争 山口組三代目』, p120-121

*7 『六代目山口組10年史』, p238

*8 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p49

*9 『仁義の祭り 実録戦後やくざ史』「横浜極道者」(藤田五郎、1988年、青樹社),p161

*10 『サムライ 六代目山口組直参 落合勇治の半生』(山平重樹、2018年、徳間書店), p91

*11 『サムライ 六代目山口組直参 落合勇治の半生』, p72

*12 『仁義の祭り 実録戦後やくざ史』「横浜極道者」,p158

*13『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書), p44

*14『大俠客 – 実録戦後やくざ史』「北海道やくざ者」(藤田五郎、1989年、青樹社),p218

*15『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版),p42

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