2016年8月福岡市内にて「村上一家」(「浪川会」2次団体)が「伊豆組」(「山口組」2次団体)とトラブルを起こし、村上一家が中州を練り歩く示威活動をしました(*1)。村上一家は、山口組に対抗する動きを示し、好戦的な側面を見せたのでした。
村上一家は元々、大牟田市を拠点に活動する独立団体でした(*2)。太平洋戦争終了(1945年)後の大牟田市において主要なヤクザ組織としては、「誠友会」がありました(*2)。村上一家は大牟田市のヤクザ業界の中では「新興勢力」という位置づけでした(*2)。
村上一家は、1978年以降、「道仁会」に加入したと考えられます(*2)。
「古賀一家」の古賀磯次が1971年1月、築後地方の他団体を結集し、道仁会を結成しました(*3)。当初の道仁会は連合型の組織でしたが、後に垂直型の組織形態に変わりました(*3)。
2006年道仁会トップの跡目問題で、村上一家らは道仁会を脱退、「九州誠道会」(1次団体)を立ち上げました(*4)。
2006年時、村上一家が道仁会において最大勢力でした(*4)。九州誠道会は道仁会と抗争をしました(*5)。抗争は2013年6月に終結しました(*5)。抗争終結に際して、九州誠道会は解散しました(*5)。同年(2013年)10月、旧九州誠道会の勢力は新団体「浪川睦会」を立ち上げました(*5)。浪川政浩が九州誠道会の二代目会長を務め、浪川睦会の会長も務めました(*5)。
浪川政浩は大牟田市で生まれ、21歳の時に村上一家に入りました(*6)。浪川政浩は東京に進出し、その際赤坂プリンスを定宿にしていました(*6)。浪川政浩は銀座のクラブのVIPルームで遊んでいたことから(*7)、東京の裏社会では一定の存在感を持つに至ったことが考えられます。浪川政浩は刺青を入れていませんでした(*8)。浪川政浩のボディガード部隊は「神闘総業」と呼ばれていました(*9)
<引用・参考文献>
*1 『菱のカーテンの向こう側 2015年~2017年山口組分裂全記録』(R-ZONE編集部、2017年、サイゾー), p240-242
*2 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p90
*3 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p188
*4 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫), p291
*5 『実話時代』2014年5月号
*6 『男達 現代が失ったオトコの神髄』(浪川政浩・明石散人、2007年、WAVE出版), p108,120-121
*7 『男達 現代が失ったオトコの神髄』, p27-29
*8 『男達 現代が失ったオトコの神髄』, p88
*9 [別冊宝島Real]『ヤクザより悪い男たち』(古市満朝、2016年、宝島社), p120
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