テキヤ組織の稼業(資金獲得業)といえば、祭りや縁日での露店商売が思い浮かばれます。テキヤ社会では、祭りや縁日は「高市」(たかまち)と呼ばれています(*1)。「市」に「高」という文字が付いてくることから、祭りや縁日がテキヤ組織にとって重要視されていることが分かります。
しかし元々、テキヤ組織は高市だけを領域としていた訳ではありません。過去には、仮設興行を展開するテキヤ組織もありました(*2)。仮設興行とは、仮設小屋による見世物商売のことです(*2)。見世物としては、サーカス、移動動物園、化物屋敷、女プロレス等がありました(*2)。
テキヤ社会では仮設興行のことを「高物」(たかもの)と呼んでいました(*2)。現在、稲川会2次団体で札幌を拠点とする「木暮一家」は、元々テキヤ組織でした(*3)。明治時代(1868~1912年)、木暮留吉が札幌で木暮一家を興しました(*3)。当時木暮一家の稼業としては、虎の見世物がありました(*3)。
「八木サーカス」というサーカス一座においては、八木勇(小司勇)が経営していました(*2)。大正時代(1912~1926年)から昭和の時代において、九州地方では「八木一家」というヤクザ組織が有名でした(*4)。八木一家のトップは、八木寅吉でした(*4)。当時八木寅吉は、九州テキヤ社会の大物人物として位置づけられていました(*4)。
実は八木サーカス経営者の八木勇は、八木寅吉の舎弟でした(*2)。八木サーカスは、八木一家の影響下にあったのです。八木勇の本名は小司勇で、「八木サーカス経営者」の場面において「八木」という姓を用いていました(*2)。サーカス名「八木」という名前は、「八木寅吉」の名前に由来していました(*4)。八木一家は後に解散するも、旧勢力が集まって熊本で虎門会という組織を立ち上げました(*4)。
ちなみにサーカスは外国でも昔から盛んでした。1770年イギリス・ロンドンのテームズ川畔に、退役騎馬中尉のフィリップ・アストレイが「アストレイ円形劇場」が開設しました(*5)。アストレイ円形劇場では馬のショーをはじめ、道化寸劇、アクロバットなどが披露されました(*5)。その後イギリス以外のヨーロッパの地域でサーカス場が作られていきました(*5)。
ロシアではアキム・ニキーチンがロシア人初のサーカス一座「ニキーチン兄弟のロシアサーカス」を立ち上げました(*5)。1876年アキム・ニキーチンは最初にサラトフでサーカス劇場を作りました(*5)。その後アキム・ニキーチンは、キエフ、アストラハン、バクー、ハリコフ等にサーカス劇場を開設していきました(*5)。また1911年にはアキム・ニキーチンはモスクワにサーカス劇場を開設しました(*5)。
スポーツ試合やコンサートのチケットを売買する「ダフ屋」組織はテキヤ組織の関係です(*6)。昔テキヤ組織が興行に関わっていたことから、興行チケットの稼業はテキヤ組織の領域とされているのかもしれません。
<引用・参考文献>
*1 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p154-155
*2 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p52-53
*3 『実話時代』2016年10月号, p109
*4 『実話時代』2016年4月号, p15-16
*5 『ユーラシア・ブックレットNo.100 ボリショイサーカス』(大島幹雄、2006年、東洋書店),p19-25
*6 『裏経済パクリの手口99』(日名子暁、1995年、かんき出版), p94-95
コメント