旭琉会二代目会長・多和田真山時代(1976~1982年)、沖縄で「シマ割り」という縄張りの再編が行われました(*1) (*2)。旭琉会2次団体の14組織に対して、1次団体(旭琉会)が縄張りの地域を選定、割り振るという内容でした(*2)。シマ割りの対象は沖縄本島内で、2次団体の組織数と同じ14地域に分割されました(*2)。ヤクザ社会において縄張りの広さや数は、法律上の担保がない為、日々の組織活動によって確定されていきます。他団体に比べて組織活動が弱くなると、縄張りは狭まり少なくなっていきます。例外的に関東ヤクザ社会においては、既存組織による「縄張りの継承」が長年業界内で認められてきました(*3)。ヤクザ社会の文脈上、多和田真山会長が取り組んだ「シマ割り」は革新的でした。またシマ割り前の1980年9月、旭琉会は沢山あった2次団体の統合・整理に着手、2次団体の数を14組織にまとめました(*2)。縄張りの再編は、2次団体の組織再編の動きとつながっていました。
結果、長年勢力圏としていた地域から離れることを余儀なくされた2次団体の組織もありました(*2)。新しい縄張りに出向く2次団体は、資金源を新たに探すことになります(*2)。シマ割りの長所としては、1次団体に公認された「縄張り」ゆえに、他の2次団体による進出を防ぎやすいことがあります。裏返せばシマ割りは、他の縄張りへの進出つまり縄張りの拡大が困難であることも意味していました。縄張り再編と同時に、多和田真山会長は各2次団体に対して、月30万円の上納金も求めました(*2)。組織変更に取り組んだ多和田真山会長に対して、次第に2次団体の間で不満が高まっていきます。シマ割りの結果、以前より資金源が減る2次団体の中には、多和田真山会長によって恣意的に勢力削減を図られたと勘繰る組織もありました(*2)。
結果、1982年10月9日沖縄市内のスナック内で多和田真山会長は射殺されます(*2)。犯人は2次団体・富永一家の組員2人でした(*2)。縄張りの選定は終わっていたものの、シマ割りの実施(新しい縄張りでの活動)自体は、翌年の1983年1月からの開始でした(*2) (*4)。多和田真山会長は、シマ割りの実施を見ることなく、死に至りました。1983年5月、翁長一家の翁長良宏総長が旭琉会の三代目会長に就任します(*4)。翁長良宏会長体制において、シマ割りは中止となりました(*2) (*4)。上納金は一時廃止されましたが、月15万円の額で再び納めることが決定されました(*4)。
<引用・参考文献>
*1 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p55
*2 『洋泉社MOOK・沖縄ヤクザ50年戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2004年、洋泉社), p100-111
*3 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p64
*4 『戦後ヤクザ抗争史』, p67
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