2014年3月松葉会から脱退し結成されたグループ(松葉会関根組)が、今年(2017年)松葉会と和解しました(*1)。和解に至ったものの、松葉会関根組のグループは松葉会に戻らず、組織名を「関東関根組」と改め、独立団体として活動していくことになりました(*1)。現在、ヤクザ組織同士が抗争を起こせば起こすほど、該当のヤクザ組織は警察当局に取締りを強化される傾向にあります。1999年に施行された組織的犯罪処罰法など、抗争事件を厳しく取り締まる法環境も整備されています(*2)。現在のヤクザ組織にとって、対立状態を抗争によって解消する方法は得策ではありません。
松葉会は1994年、2次団体を「傘下団体」とする直参制度を導入しました(*3)。1953年に設立された松葉会は、1994年まで連合型の組織形態をとっていました(*4)。連合型組織において、1次団体と2次団体の間に上下関係はなく、1次団体は「各2次団体の集合体」という位置づけです。「1次団体の執行部」は存在するものの、「執行部外の2次団体トップ達」との関係は理屈上対等です(実際は実力者が執行部に入るので、力関係は対等ではないことの方が多いですが)。一方、直参制度が厳密な山口組では、1次団体と2次団体の間に上下関係は明確に存在し、「1次団体の執行部」による意思決定は「執行部外の2次団体トップ達」にとって絶対に従わなければなりません。連合型組織の時代が長かった影響もあり、直参制度の導入後も、松葉会は2次団体の自主性を尊重する傾向にありました(*5)。
2014年の内部分裂以前、2009年にも松葉会は内部分裂を起こしています(*6)。当時の松葉会トップ牧野国泰会長(五代目)の跡目問題が発端です(*6)。荻野義朗会長代行グループと伊藤芳将幹事長グループが対立した結果、伊藤グループが松葉会同志会という組織を結成します(*6)。荻野義朗は群馬県に拠点を置く大久保一家のトップであり、伊藤芳将は茨城県鹿嶋市に拠点を置く國井一家のトップでした(*4)。しかし2009年、山口組と稲川会のすすめもあって、両グループは和解します(*6)。六代目会長には荻野義朗が就任し、伊藤グループの松葉会同志会は松葉会に戻りました(*6)。会長を引退した牧野国泰はかつて大久保一家のトップ、十代目総長でした(*4)。十一代目総長として後を継いだのが荻野義朗でした(*4)。つまり荻野義朗は牧野国泰から、2次団体(大久保一家)と1次団体(松葉会)の両方を引き継いだことになります。牧野国泰と荻野義朗のつながりは深いです。現在の大久保一家トップは、十二代目総長の小池清一です(*4)。ちなみに小池清一は、関東ヤクザ組織の盃事の媒酌人としても活躍する人物です(*4)。
2014年3月、荻野義朗は会長職を2009年対立関係にあった伊藤芳将に譲り、総裁職に就きます(*1)。この新人事に反発して脱退したのが松葉会関根組(現在の関東関根組)のグループです。荻野義朗出身母体の大久保一家、伊藤芳将の出身母体の國井一家は松葉会に残留しました。しかし松葉会関根組には2014年の組織発足当初から、牧野国泰(松葉会五代目会長、大久保一家十代目総長)が関わっています(*1)。松葉会関根組の後ろに牧野国泰が控えている格好です。松葉会総裁の荻野義朗は、引き立ててくれた牧野国泰には遠慮せざるをえません。松葉会と松葉会関根組の和解の背景には、警察当局の取締り強化の回避以外に、牧野国泰の存在もあったことが考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『実話時代』2017年6月号, p23-25
*2 『最新ビジュアルDX版! 山口組分裂「六神抗争」365日の全内幕』(宝島特別取材班編、2016年、宝島社)「弘道会と山健組の衝突を招いたカネと暴力のバランスシート」(猫組長), p140
*3 『実話時代』2014年5月号
*4 『実話時代』2017年3月号, p28-30
*5 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p65
*6 『実話時代』2015年7月号, p37
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