小桜一家

  • URLをコピーしました!

 鹿児島県で活動するヤクザ組織の1つとして、独立団体の「小桜一家」があります。2015年時点、小桜一家は鹿児島県内のみで活動し、約70人の構成員を擁していました(*1)。また別の資料(『実話時代』2015年2月号「二〇一五年度版指定21団体最新勢力マップ」)では、2012年時点で小桜一家は250人の勢力を擁していました(*2)。2012年時点で鹿児島県のヤクザ組織勢力は510人であり、小桜一家250人の勢力が鹿児島県において最多で、それに次ぐのが「山口組」(分裂前)の220人でした(*2)。2015年8月山口組からの脱退勢力が「神戸山口組」を結成、山口組は分裂しました。2012年時点、山口組(分裂前)の中で鹿児島県を本拠地にする2次団体はありませんでした(*2)。山口組(分裂前)において3次団体以下の組織が鹿児島県で活動していたことになります。

 ちなみに2015年時点、九州における他の1次団体は「工藤會」(北九州市)が3県で活動し、約470人の構成員を擁していました(*1)。「福博会」(福岡市)は3県で活動し、約160人の構成員を擁していました(*1)。「道仁会」(久留米市)は4県で活動し、約550人の構成員を擁していました(*1)。「浪川睦会」(「浪川会」の前身)は1都5県で活動し、約250人の構成員を擁していました(*1)。「太州会」は福岡県のみで活動し、約140人の構成員を擁していました(*1)。

 構成員数の多い順に並べると、道仁会(約550人)→工藤會(約470人)→浪川睦会(約250人)→福博会(約160人)→太州会(約140人)→小桜一家(約70人)になります。

 小桜一家は太平洋戦争終了直後の1945年、大里清蔵によって結成されました(*3)。設立当初の組織名は「小桜組」でした(*3)。1952年までに小桜組は鹿児島市内のアウトロー組織を支配下に置きました(*3)。

 1953年アメリカ合衆国軍は奄美群島を日本に返還しました(*4)。

 1961年片平孝が小桜組の二代目組長に就任しました(*5)。後に片平孝は死去し、1969年神宮司文夫が小桜組三代目組長に就任しました(*5)。「神宮司」が姓になりました(*5)。

 神宮司文夫はトップ就任時に、「小桜組」を「小桜一家」に改称しました(*5)。トップ職の名称は「総長」になりました(*5)。就任(1969年)から数年後、神宮司文夫総長は、離島を含む鹿児島県内のアウトロー組織を支配下に置きました(*5) (*6)。

 1988年平岡喜栄が四代目総長に就任しました(*5)。神宮司文夫三代目体制(1969~1988年)において、平岡喜栄は「小桜一家の若頭」を長く担っていました(*5)。また三代目体制時、平岡喜栄は平岡組(小桜一家2次団体)のトップでもありました(*6)。四代目体制下、前トップの神宮司文夫は「総裁」職に就きました(*5)。

 1992年公安委員会は小桜一家を「指定暴力団」に指定しました(*7)。現在も小桜一家は指定暴力団として指定されています。2004年時点、小桜一家は鹿児島県のみで活動し、約110人の構成員を擁していました(*7)。先述したように2015年時点で小桜一家の構成員数は約70人でした。2015年において小桜一家の構成員数が、2004年に比し36%減少したことが分かります。

 ちなみに2004年時点、九州における他の1次団体は、工藤會(北九州市)が3県で活動し、約620人の構成員を擁していました(*7)。福博会(福岡市)は4県で活動し、約330人の構成員を擁していました(*7)。道仁会(久留米市)は5県で活動し、約910人の構成員を擁していました(*7)。太州会は福岡県のみで活動し、約140人の構成員を擁していました(*7)。

 構成員数の多い順に並べると、道仁会(約910人)→工藤會(約620人)→福博会(約330人)→太州会(約140人)→小桜一家(約110人)になります。

 小桜一家は山口組と親戚関係を結んでいなかったです。2015年時点で関西以西のヤクザ組織で、山口組と親戚関係を結んでいなかったのは、15団体中「東組」、工藤會、道仁会、太州会、浪川会、小桜一家、「旭琉会」の7団体でした。

 また小桜一家は、九州独立団体の親睦会「四社会」(工藤會、道仁会、太州会、「熊本會」)(*8)に、加盟していませんでした。四社会に加盟していなかった九州のヤクザ組織(独立団体)として、小桜一家の他には、浪川会と福博会がありました。

 浪川会は元々「九州誠道会」と名乗っていました(*9)。道仁会からの脱退勢力が2006年九州誠道会を結成、その後、道仁会と2013年まで抗争をしました(*9)。九州誠道会は2013年6月に解散を表明するものの、その後、旧九州誠道会勢力は浪川睦会を結成しました(*9)。後に浪川睦会は浪川会に改称しました(*9)。浪川会は道仁会と抗争をしたことから、四社会には加盟しにくかったです。

 福博会は山口組と親戚関係(同盟関係)を結んでおり(*10)、四社会に加盟にしにくかったと考えられます。小桜一家は広域団体の山口組に加えて、九州の他団体とも距離を置いていたことが分かります。

 山口組の若頭・梶原清晴は1971年7月25日、鹿児島県の硫黄島で波にさらわれ、溺死しました(*11)。当時、梶原清晴は趣味の磯釣りの為、仲間らと硫黄島を訪れていました(*11)。梶原清晴は1968年から若頭を務めていました(*11)。小桜一家(神宮司文夫総長)は、梶原清晴の遺体を丁重に神戸まで送り届けました(*12)。小桜一家と山口組の間で意思疎通や交流があったことが窺えます。

 鹿児島県のテキヤ(露店商)業界はどうだったのでしょうか。1990年時の情報では、鹿児島県において「福嶋会」(福嶋憲)、「荒木会」(荒木茂之)という2つのテキヤ組織が活動していました(*13)。

<引用・参考文献>

*1 警察庁「平成27年の暴力団情勢」,p28

*2 『実話時代』2015年2月号「二〇一五年度版指定21団体最新勢力マップ」(人数はすべて警察資料による)

*3 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p161-162

*4 『洋泉社MOOK・沖縄ヤクザ50年戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2004年、洋泉社),p44

*5 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社),p94-97

*6 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑧ 現代ヤクザマルチ大解剖 ②』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2005年、三和出版),p183

*7 警察庁「平成16年の暴力団情勢」,p21

*8『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p77

*9『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』, p83

*10 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』, p82

*11 『山口組若頭』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p23-27

*12 『博徒・森川鹿次の生涯: 瀬戸内遊俠伝』(正延哲士、2000年、洋泉社),p190

*13 『香具師はつらいよ』(北園忠治、1990年、葦書房),p36

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次