日本国粋会と港会が生まれた背景

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 太平洋戦争終了(1945年)から十数年後、関東のヤクザ社会において、各々のヤクザ組織は独立して活動するのではなく、各々の組織が集う形の大きな組織を作り始めていきました。1958年、関東に大規模団体が2つ誕生しました(*1) (*2)。2つとは「日本国粋会」と「港会」でした。1958年7月日本国粋会が結成されました(*1)。日本国粋会に加入した博徒組織の中には繁華街に縄張りを持ち、広大な縄張りを持っていた組織もありました(*1)。

 日本国粋会の組織形態は「連合型」でした(*3)。1965年4月以前の日本国粋会には「生井一家」「田甫一家」「金町一家」「前川一家」「青柳組」「小金井一家」「佃政一家」「落合一家」「中杉一家」「辺見一家」「山本一派」の計11団体が加盟していました(*3)。

 実際、日本国粋会の加盟組織は、上記の11団体だけではなかったです。1961年時、長野県の博徒組織「信州斎藤一家」が日本国粋会に加盟していました(*4)。

 時代は前後していると思われますが、各加盟団体(信州斎藤一家を除く)の勢力を確認しておきましょう。

 『公安百年史 - 暴力追放の足跡』(1978年)の「主要暴力団体」(一部1966年調査を含む)によれば、生井一家(博徒組織)の構成員数は549人、田甫一家(博徒組織)の構成員数は69人、金町一家(博徒組織)の構成員数は70人、前川一家(博徒組織)の構成員数は291人、青柳組(青少年不良団=愚連隊)の構成員数は64人、小金井一家(博徒組織)の構成員数は482人、佃政一家(博徒組織)の構成員数は198人、落合一家(博徒組織)の構成員数は251人、中杉一家の(博徒組織)の構成員数は122人、辺見一家の(博徒組織)の構成員数は35人、山本一派に関しては構成員数の資料がありませんでした(*5)。

 構成員数を降順(1位~10 位)で並べると、1位:生井一家(549人)→2位:小金井一家(482人)→3位:前川一家(291人)→4位:落合一家(251人)→5位:佃政一家(198人)→6位:中杉一家(122人)→7位:金町一家(70人)→8位:田甫一家(69人)→9位:青柳組(64人)→10位:辺見一家(35人)となります。

 構成員数の点からいえば生井一家と小金井一家の「二強」状態だったことが分かります。

 また上記から日本国粋会では博徒組織が多数派を占めていたものの、青柳組のように愚連隊も加盟していたことが分かります。

 しかし1965年5月小金井一家、佃政一家、落合一家、中杉一家、辺見一家、山本一派の計6団体は日本国粋会を脱退しました(*3)。当時、警察庁はヤクザ組織に対する取締り強化作戦(通称:頂上作戦)を実施していました(*1)。同年(1965年)12月、日本国粋会は解散しました(*1)。

 日本国粋会の後継組織は、現在の「山口組」2次団体「國粹会」と「落合金町連合」です。1991年日本国粋会は「國粹会」に改称しました(*1)。2005年9月國粹会は山口組の傘下に入り、2011年10月國粹会から落合金町連合が2次団体に内部昇格しました(*6) (*7)。落合金町連合は落合一家、金町一家、「保科一家」の3団体の合併により結成されました(*7)。

 國粹会は、山口組の傘下に入った後も、國粹会内部では連合型の組織形態を維持していました(*8)。しかし2007年國粹会は組織形態を、國粹会を上位団体とする垂直型に改めました(*8)。

 一方の港会は、「住吉一家」を含む博徒組織、テキヤ組織、愚連隊など計28団体により結成されました(*2)。港会の後継組織は、現在の住吉会です。1958年当時、阿部重作が住吉一家のトップ(総長)を務めていました(*2)。住吉一家は博徒組織で、戦前(1941年以前)には芝、麻布、神田を縄張りとしていました(*9)。また住吉一家は芝浦も縄張りとしていました(*10)。

 港会初代会長には「阿部重作の代貸」である青田富太郎が就任しました(*2)。つまり青田富太郎は住吉一家内では「序列2位」(もしくはそれに準ずる地位)であり、その青田富太郎が港会のトップとなったのでした。結成当初の港会執行部は実権を持たず、港会の組織形態は連合型だったと考えられます。

 1964年10月、港会は「住吉会」に改称しました(*2)。住吉会の組織形態も、日本国粋会同様、「連合型」でした(*3)。しかし警察庁による取締り強化を受けた結果、翌年(1965年)10月住吉会は、解散しました(*2)。その後、旧住吉会勢力は新団体「住吉連合」を立ち上げました(*2)。1982年5月住吉連合は「住吉連合会」に改称しました(*2)。1991年住吉連合会は「住吉会」と改称しました (*11)。

 1991年住吉会は1次団体の組織形態を「連合型」から「垂直型」に改めました(*11)。ただし1998~2014年の間、住吉会は連合型の組織に戻りましたが、各団体は住吉一家の傘下団体となる形で垂直型の組織形態が維持されました(*12)。2014年以降、現会長の関功の就任に伴い、住吉会は再び垂直型の組織形態となりました(*13)。

 日本国粋会と港会が結成された背景には、ライバル組織の勢力拡張がありました。太平洋戦争後、構成員1万人以上を抱えるまでに、関東圏で勢力を拡大したのが「関根組」でした(*14)。1936年関根組は結成され(*14)、関東近郊の土建業に大きな影響力を及ぼしていました(*15)。1949年GHQは関根組の勢力拡大を危惧し、関根組を解散に追い込みました(*14)。

 関根賢(関根組の結成者)は、その後ヤクザ社会から引退し、建設会社の経営者になりました(*14)。1953年藤田卯一郎が、旧関根組の勢力を集め、「松葉会」を結成しました(*16)。藤田卯一郎は関根賢の配下でした(*16)。

 戦後、既存の博徒組織やテキヤに属さない不良集団いわゆる愚連隊が首都圏や関西圏の都市部で誕生し、積極的に活動していきました。

 東京では町井久之(本名:鄭建永)の率いる朝鮮人系アウトロー組織が既存のヤクザ組織と争っていました(*17)。町井久之も在日二世の朝鮮人でした(*17)。町井久之は戦後、銀座に「中央商会」(事件屋)や「中央興行社」(興行会社)を興しました(*17)。一方で町井久之は朝鮮人系愚連隊を影響下に置いていきました(*17) (*18)。町井久之の企業群及び愚連隊群は「町井一家」などと総称されていました(*18)。1957年町井久之は「東声会」を結成しました(*17) (*18)。旧町井一家勢力が東声会の中核を担いました(*18)。町井久之は町井一家勢力の統括団体として「東声会」を結成したと考えられます。

 また神奈川県では「稲川組」(現在の稲川会)が勢力を拡張させていました(*19)。日本国粋会と港会に集った各々のヤクザ組織には、松葉会や東声会、稲川組に対抗する意味合いもあったと考えられます。

 テキヤ組織も同様の動きを見せました。1961年「関口一門」(関口愛治系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)等のテキヤ組織が集い、「極東愛桜連合会」を結成しました(*20)。極東愛桜連合会に集ったテキヤ組織も、ライバルのヤクザ組織に対抗する意味合いがあったと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社),p160-164

*2 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』, p42-48

*3 『公安百年史 - 暴力追放の足跡』(藤田五郎編著、1978年、公安問題研究協会),p716-719

*4 『実録 乱世喧嘩状』(藤田五郎、1976年、青樹社),p46-56

*5 『公安百年史 - 暴力追放の足跡』,p707-708

*6 『六代目山口組10年史』(2015年、メディアックス), p25

*7 『六代目山口組10年史』, p79

*8 『実話時代』2015年10月号, p21

*9 『関東やくざ者』(藤田五郎、1971年、徳間書店),p26

*10 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫),p307-308

*11 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』, p132-133

*12 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』, p30-31

*13 『実話時代』2016年9月号

*14 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』, p20-21

*15『ヤクザ1000人に会いました!』(鈴木智彦、2012年、宝島SUGOI文庫), p143

*16 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』, p208-209

*17 『実話時代』2016年12月号, p32-33

*18 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社),p70-73

*19『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』, p16-17

*20 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p13-14

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