フィリピンからの拳銃密輸ビジネス

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 1984年4月11日大井埠頭にて、フィリピン発のコンテナ船「ボニター・エース号」(パナマ船籍)を警視庁保安一課と東京税関が捜索、コンテナ内から拳銃255丁と銃弾約3,000発を押収しました(*1)。拳銃の一度の押収量としては、当時戦後最大でした(*1)。また後にコンテナ内から新たに拳銃46丁と銃弾数千発が見つかり、最終的な押収量は計拳銃301丁と銃弾5,546発となりました(*1)。

 拳銃密輸に関与した者達は銃刀法違反、関税法違反等の容疑で逮捕されました(*1)。密輸の依頼主はヤクザ組織の幹部らで、フィリピンからの拳銃密輸役(拳銃の調達役)を担ったのがフィリピン在住の日本人とフィリピンの武器密輸売人(ガンラーナー)でした(*2) (*3)。捜査機関は逮捕された幹部と同じヤクザ組織の末端構成員からの情報提供により、拳銃密輸の件を事前に知っており、摘発に備えていたのでした(*4)。

 密輸元になったフィリピンでは、銃所持が合法化されていました(*5)。銃のライセンスはほとんど申告制であり、多くの市民が銃を所持していました(*5)。セブ島のダナオ市では、密造銃の工場がありました(*5)。またヤクザ組織の構成員でもフィリピンの場合、入国しやすいです(*6)。距離的な近さもあり、日本のヤクザ組織にとってフィリピンは格好の「拳銃の仕入れ先」だったのです。

 1984年4月11日の拳銃密輸に関わった者達は、同年1月にも拳銃159丁をコンテナ内に隠す方法でフィリピンから日本に密輸していました(*7)。拳銃159丁の密輸は捜査機関にばれておらず、成功しました(*7)。拳銃159丁の密輸成功に慢心した幹部らが口を滑らせてしまった結果、後に末端の構成員が知ることになったと推測されます。拳銃159丁の密輸では、依頼主のヤクザ組織幹部とフィリピン側の調達役は、「1丁15万円」の売買契約を結んでいました(*8)。

 1980年代当時、日本国内の拳銃市場では1丁60~70万円で売買取引されていたと言われています(*9)。1995年出版の書籍情報では、1丁40~50万円で売買取引されていたとされています(*10)。どちらにせよ当時フィリピンから「1丁15万円」で仕入れ日本国内で転売したら、多額の利益が得られたことが分かります。

<引用・参考文献>

*1 『流転―「拳銃密輸王」と呼ばれて』(金田仁、2009年、日本文芸社), p52-53,260-263

*2 『流転―「拳銃密輸王」と呼ばれて』, p174,180-181

*3 『流転―「拳銃密輸王」と呼ばれて』, p159

*4 『流転―「拳銃密輸王」と呼ばれて』, p258-259

*5 『流転―「拳銃密輸王」と呼ばれて』, p121

*6 『ヤクザ1000人に会いました!』(鈴木智彦、2012年、宝島SUGOI文庫), p62-63

*7 『流転―「拳銃密輸王」と呼ばれて』, p46-48

*8 『流転―「拳銃密輸王」と呼ばれて』, p153

*9 『極道たちの塀の中』(小田悦治、1993年、にちぶん文庫), p83

*10『裏経済パクリの手口99』(日名子暁、1995年、かんき出版), p129

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