太平洋戦争終了(1945年)後、三代目田岡一雄組長体制下の山口組は1957年以降、武力行使を伴いつつ、兵庫県外に本格的に勢力を拡張していきました。1957年山口組は大分県別府市、徳島県小松島市で抗争をしました。
1957年3月大分県別府市で山口組3次団体・石井組と地元組織・井田組の間で抗争が勃発しました(*1)。石井組、井田組ともにテキヤ系組織でした(*1)。
石井組は戦後の1952年に発足した組織で、北九州のテキヤ組織・木村三代目村上組(当時山口組2次団体)の傘下に入ったことで、山口組系列となりました(*1)。石井組は木村三代目村上組から別府市の露店営業の権利を譲渡してもらい、別府市内で本格的に活動をしていきました(*1)。後に石井組は興行ビジネスにも進出しました(*1)。
「別府市の露店営業」とは、いわゆる道路上の常設露店営業のことを指していたと推測されます。戦前からテキヤ組織は常設露店営業を手掛けていました(*2)。テキヤ業界で常設露店営業は「平日」(ひらび)と呼ばれていました(*2)。戦後、常設露店営業は禁止されていきました(*2)。東京都の場合、1950年から常設露店営業が禁止されました(*3)。1960年12月施行された道路交通法により、道路上の露店営業は「管轄警察署の許可制」の下で復活を果たしました(*4)。しかし1960年以前から、違法行為にも関わらず、摘発リスクを踏まえた上で道路上の露店営業(通称“ひろい”)をする者達も中にはいました(*2)。1957年以前における「別府市の露店営業」とは、「ひろい」(違法状態の常設露店営業)だった可能性があります。もしくは東京都などとは異なり、別府市もしくは大分県が特別にテキヤ組織に「平日」(ひらび)を公認していた可能性があります。
一方、井田組は別府市では戦前から活動している古株の組織で、創設者の井田栄作は戦後別府市の市議会議員に転身しました(*1)。抗争時の1957年も井田栄作の立場は「別府市議会議員」でした(*1)。抗争前の別府市内には「新興の石井組」と「既得権を握る井田組」という対立構造があったのです。
実は井田組は1949年、当時別府市に進出してきた山口組2次団体・小西組と抗争をしていました(*5)。小西組は大阪-別府間運航の関西汽船内における違法賭博で収益を上げていた組織で(*5)、1946年別府市に拠点を置きました(*1)。地元の井田組は「山口組進出役」の小西組を敵対視、両者の間では緊張感が高まっていきました(*1)。1949年の抗争では小西組側が井田組トップ井田栄作に襲撃、重傷を負わせました(*5)。小西組襲撃実行犯の1人が後の石井組トップの石井一郎でした(*5)。その後、大分県警が抗争に介入、小西組は1950年解散を余儀なくされました(*5)。井田組は1949年、1957年の2回において「山口組」と抗争をしたことになります。
1949年、1957年の両方の抗争において山口組は別府市に多数の構成員を派遣し、下部団体(1949年は小西組、1957年石井組)を支援しました(*5)。1957年の抗争では、後に石井組と井田組が和解に至りました(*5)。
1950~1960年代の交通事情から、当時九州行きの主要経路の1つとして、瀬戸内海を通る別府航路がありました(*6)。両方の抗争時(1949年、1957年)において別府市は「九州の玄関口」、つまり交通の要衝だったのです。九州進出を図りたい組織にとって、別府市は「橋頭堡」としての候補地だったことは容易に推測できます。
1957年11月以降山口組は徳島県の小松島市にも下部団体の抗争で応援部隊を派遣しました(*7)。当時私鉄の南海電鉄が徳島県に進出、徳島県の交通機関を傘下に収めていました(*6)。同時に南海電鉄は和歌山港-小松島港間の航路を開設、小松島市を「四国の玄関口」の1つにしようとしていました(*6)。おそらく1957年時の小松島市も交通の要衝であったと考えられます。
山口組が勢力拡張を本格的に開始した1957年、抗争のあった別府市、小松島市はともに当時交通の要衝だったことが考えられます。裏返せば、当時の山口組は交通の要衝をしっかりおさえる意図を持っていたことが窺えます。
<引用・参考文献>
*1 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p94-97
*2 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p184
*3 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫), p188
*4 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書), p89-90
*5 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p128-131
*6 『鉄道ジャーナル』2022年6月号「創業来100年概史[第14回]」(芝川三郎), p115
*7 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』, p92-93
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