アメリカ合衆国のバイカーギャング「ヘルズ・エンジェルス」(Hell’s Angels)は1960年代後半以降「アウトロー風のバイカークラブ」ではなく「本格的アウトロー組織」としての様相を呈していきました(*1)。飛躍の背景には違法薬物ビジネスがありました。1960年代後半、ヘルズ・エンジェルスはフェンサイクリジン(phencyclidine)という薬物の密造及び密売で収益を上げていました(*1)。
フェンサイクリジンは違法薬物の小売市場では「DOA」(Dust of Angelsの略)という名前で流通していました(*1)。「Dust of Angels」の由来としては、1つはヘルズ・エンジェルスが販売商品のブランド化を試み、自身の名を入れた「Dust of Angels」という商品名を考案、流布させたことが考えられます。もしくは違法薬物市場におけるヘルズ・エンジェルスに対する揶揄として、「Dust of Angels」という名前が広まっていった可能性も考えられます。
基本的にフェンサイクリジンは馬の鎮静剤として用いられていました(*1)。フェンサイクリジンは摂取者に激しい幻覚やせん妄を引き起した為、人体にとって危険な薬物でした(*1)。フェンサイクリジンの使用者は経鼻吸引、もしくは煙草やマリファナと混合しての吸煙により摂取しました(*1)。危険性が広まった影響か、次第にフェンサイクリジンの需要は減少していきました(*1)。
他の違法薬物ビジネスに比し、フェンサイクリジンの違法製造及び販売ビジネスは、ヘルズ・エンジェルスに大きな利益をもたらしていました(*1)。マリファナやコカインでは、ヘルズ・エンジェルスの場合、栽培費用や密輸費用がかかりました(*1)。一方、化学製品のフェンサイクリジンはヘルズ・エンジェルス内で製造可能であり、大幅な利益をとれる「商品」だったのです(*1)。
フェンサイクリジンの代替として、ヘルズ・エンジェルスが次に製造していったのがメタンフェタミン(methamphetamine)でした(*1)。ケニー・マックスウェル(Kenny Maxwell)という人物がヘルズ・エンジェルスにメタンフェタミンの製造方法を伝授しました(*1)。
ケニー・マックスウェルは元々、シェル(イギリスの石油会社)の化学者でした(*1)。結果、メタンフェタミンビジネスは、フェンサイクリジンの時よりも、大きな収益をヘルズ・エンジェルスにもたらしました(*1)。
一方、日本の場合、1951年覚醒剤取締法制定以降、日本ではメタンフェタミン等の覚醒剤は「違法薬物」となりました(*2)。裏返せば、1951年以前の日本ではメタンフェタミンやアンフェタミンの覚醒剤は合法的に販売及び使用されており、医薬品製造企業がメタンフェタミンやアンフェタミンを工場で製造していました(*2)。1951年以降、違法領域においても覚醒剤製造は日本国内では行われませんでした(*3)。日本国内製造困難の理由としては、製造時の悪臭発生がありました(*3)。悪臭により「製造拠点」が露見する可能性が高くなるからです。例外としては1990年代の宗教組織・オウム真理教がありました(*4)。オウム真理教は自身の宗教施設内で1994年頃から営利目的で覚醒剤を製造していました(*4)。
国土の狭い日本と異なり、アメリカ合衆国は広い国土を有しています。アメリカの場合、製造拠点が露見しにくいという面があると考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『Angels of Death: Inside the Bikers’ Global Crime Empire』(William Marsden&Julian Sher,2007,Hodder & Stoughton), p40-42
*2 『薬物とセックス』(溝口敦、2016年、新潮新書), p83-87
*3 『ヤクザ500人とメシを食いました!』(鈴木智彦、2013年、宝島SUGOI文庫), p126
*4 『覚醒剤アンダーグラウンド 日本の覚醒剤流通の全てを知り尽くした男』(高木瑞穂、2021年、彩図社), p127
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