メキシコ麻薬カルテルの歴史を振り返ると「グアダラハラ・カルテル」(Guadalajara Cartel)という組織名がよく登場します。「グアダラハラ」はハリスコ州の州都の名前です。
グアダラハラ・カルテル発足の発端は、1977年1月中旬に遂行されたメキシコ及びアメリカ合衆国の合同作戦でした(*1)。作戦名は「コンドル」(Condor)で、コンドルの目的はメキシコ北西部に点在する違法の大麻畑及びケシ畑(*2)の壊滅でした(*1)。空中散布、地上掃討作戦により、違法農場は破壊され、多くの麻薬組織関係者が逮捕されました(*1)。コンドル作戦は一定の成果を収めました(*1)。
麻薬組織のボスらは比較的、逮捕を免れることができていました(*1)。逮捕を免れた要因の1つとしては、ボスらの日常的な贈賄が考えられました(*1)。贈賄対象は警察組織、軍隊、制度的革命党(PRI)等でした(*1)。
しかし麻薬組織のボスらは不安を拭い去ることができませんでした。1978年9月15日夜、メキシコ麻薬業界の大物ペドロ・アビレス・ペレス(Pedro Avilés Pérez)がシナロア州クリアカンの郊外で兵士により処刑されました(*1)。大物殺害を受け、ボスらの逮捕等に対する不安に拍車が掛かりました(*1)。ボスらは不安解消の為、居住地の変更に踏み切りました(*1)。多くのボスらが新たな居住地として選んだのが、ハリスコ州の州都グアダラハラでした(*1)。
図 ハリスコ州グアダラハラの地図(出典:Googleマップ)
グアダラハラに移住したボスらは次に、ライバル組織と向き合う必要がありました。コンドル作戦の結果、メキシコ麻薬組織による違法薬物供給量は減少 していました(*1)。供給量減少(つまり収益の減少)が起点となり、組織間で不和が生じていたのです(*1)。ちなみに生産量に関しては、1979年時点でメキシコにおけるマリファナ及びヘロイン生産量は回復していました(*1)。生産量回復の背景には、アメリカ合衆国の違法薬物対策の関心が、メキシコからコロンビアに移ったことがありました(*1)。
組織間の不和を解消すべく、当時勢いのあったミゲル・アンヘル・フェリックス・ガジャルド(Miguel Ángel Félix Gallardo)らが主導し、他組織のボスらを巻き込み、1980~1981年に新団体を作りました(*3)。フェリックス・ガジャルドらは、「新団体」の下で組織間の利害を調整し、違法薬物ビジネスの立て直しを図ったと考えられます。新団体は後に「グアダラハラ・カルテル」と呼ばれました(*3)。
新団体結成前の1977年後半、フェリックス・ガジャルドは、コロンビアのメデジン・カルテルの一派と提携、コカイン密輸業務の受託に成功しました(*1)。フェリックス・ガジャルドにコカイン密輸業務を委託したのは、ゴンサロ・“エル・メヒカーノ”・ロドリゲス・ガチャ(Gonzalo “El Mexicano” Rodríguez Gacha)という人物でした(*1)。ゴンサロ・ロドリゲス・ガチャは、メデジン・カルテル内のエスコバル派に属していました(*4)。
提携以降、フェリックス・ガジャルドの組織はメキシコ経由の密輸経路で毎月1.5~2トンの高品質コカインをアメリカ合衆国に運び込みました(*1)。メデジン・カルテルのエスコバル派からの密輸業務受託により、フェリックス・ガジャルドの組織は莫大な収益を上げました(*1)。コカインビジネスによる収益力が、フェリックス・ガジャルドの「力の源泉」でした。
グアダラハラ・カルテルにおいて、参加組織(2次団体)は「自組織内の指揮命令権」を持ち続けました(*3)。各2次団体には自治権があったのです。ゆえに1次団体グアダラハラ・カルテルの組織形態は「連合型」だったと考えられます。1次団体グアダラハラ・カルテルにはトップ職はなかったようです。しかしながらフェリックス・ガジャルドが組織内では「ゴッドファーザー」(padrino)として見なされており(*3)、グアダラハラ・カルテルの実質トップだったと思われます。
グアダラハラ・カルテルに参加した組織(2次団体)のボスとしては、エルネスト・フォンセカ・カリージョ(Ernesto Fonseca Carrillo)、ラファエル・キャロ・キンテーロ(Rafael Caro Quintero)、マヌエル・“エル・コチロコ”・サルシド・ウゼタ(Manuel “El Cochiloco” Salcido Uzeta)、パブロ・アコスタ・ビジャレアル(Pablo Acosta Villarreal)等がいました(*3)。
1985年2月グアダラハラ・カルテルはアメリカ合衆国麻薬取締局(Drug Enforcement Agency)捜査官のエンリケ・カマレナ(Enrique Camarena)を誘拐、拷問の後に殺害しました(*3)。アメリカ合衆国政府は自国機関の捜査員殺害という事態を受け、メキシコ政府に対し強く抗議しました(*3)。アメリカ合衆国政府はおそらく、メキシコ政府に対しグアダラハラ・カルテルの取締り強化を要請したと考えられます。
メキシコ政府は軍隊及び警察組織をハリスコ州に派遣、グアダラハラ・カルテルに対する大規模な取り締まりを命じました(*3)。取締まりにより、キャロ・キンテーロが1985年4月に逮捕、フェリックス・ガジャルドが1989年4月に逮捕されるなど、グアダラハラ・カルテル最高幹部の逮捕が続きました(*3)。結果グアダラハラ・カルテルは1989年解散に至りました(*3)。
<引用・参考文献>
*1 『Mexican Cartels: An Encyclopedia of Mexico’s Crime and Drug Wars』(David F. Marley,2019,Abc-Clio Inc), p137
*2 『Mexican Cartels: An Encyclopedia of Mexico’s Crime and Drug Wars』, p81
*3 『Mexican Cartels: An Encyclopedia of Mexico’s Crime and Drug Wars』, p138-139
*4 『コロンビア内戦 ― ゲリラと麻薬と殺戮と』(伊高浩昭、2003年、論創社), p165
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