アンデス山岳地帯の先住民族は古来、コカ葉を常習的に摂取してきました(*1)。先住民族の間でコカ葉は宗教儀式や治療に用いられてきました(*1)。コカ葉の薬効としては「疲労回復」「空腹感の軽減」があり、強壮目的としてもコカ葉は摂取されてきました(*1)。先住民族はコカ葉を噛んで摂取していました(*2)。
コカ葉は苗床から移植後2~3年で、収穫可能です(*3)。またコカ葉は、雨不足による水枯れ、病害虫にも強い特徴を有しています(*3)。
スペインの南米植民地化以降、コカ葉は「鉱山労働者の強壮目的」としても重宝されました(*4)。南米の鉱山街ではコカ葉が「鉱山労働者の賃金」として用いられ、またコカ葉による現物納付も見られました(*4)。鉱山街においてコカ葉は「通貨」の役割を果たしていたのでした。
南米の内陸国・ボリビアは、コカ葉栽培国の1つです。ボリビアのユンガス地帯では、コカ葉は年に3回(3月、6月、10月末もしくは11月初め)収穫されました(*4)。コカ葉の最多収穫時期は、3月(雨期の終わり)でした(*4)。南半球に位置する南米では、3月以降から秋が始まります。またコカ葉の収穫は、大量の労働力を必要としました(*4)。
図 ボリビアの地図(出典:Googleマップ)
ユンガス地帯ではコカ葉は収穫後48時間以内に乾燥させなければ、葉が変色してしまいました(*3)。ユンガス地帯では葉の変色は商品価値を落とす為、収穫後はすぐにコカ葉を天日で乾燥させました(*3)。
一方ジャーナリストのロベルト・サヴィアーノは書籍において、コカ葉は収穫後「24時間以内」に乾燥させないと質が落ちると述べていました(*5)。栽培地域やコカ葉の品種によって、品質劣化に至る時間に差があったのかもしれません。
1952年以前のユンガス地帯では、大土地所有者がコカ葉の大農場を運営していました(*1)。しかし1952年以降のボリビア革命により農地改革が実行され、ユンガス地帯のコカ葉の大農場が接収されました(*1)。
一方1960年代以降、コチャバンバ県チャパレ地区においてコカ葉の栽培が盛んになりました(*1)。1969年コロンビアにおいてコカイン(コカ葉原料の違法薬物)が初めて精製されました(コロンビアでコカインが初めて「密造」されたという意味で、コカイン自体は昔からありました)(*6)。コロンビア麻薬組織は1969年以降コカインをアメリカ合衆国などに密輸し、莫大な収益を上げていきました(*7)。
チャパレ地区のコカ葉栽培エリアは、コロンビア麻薬組織の「コカ葉供給元」となりました(*1)。ボリビアの栽培地からコロンビアには、乾燥コカ葉を送っていた可能性もあるものの、輸送効率から考えるとコカ・ペースト(コカ・ペーストにすると重量が大幅減少する為)(*6)に加工して、送っていた可能性の方が高いと考えられます。ともかくコロンビア麻薬組織は自身の「コカイン生産網」にチャパレ地区を組み込んだのです。
ユンガス産コカ葉は、葉が小さく、噛むと心地良い風味がしました(*8)。一方チャパレ産コカ葉は、葉が大きく、アルカロイド含量が多かったです(*8)。チャパレ産コカ葉は噛むのには適していませんでしたが、先述のコカ・ペーストの原料としては最適でした(*8)。
1980年頃のボリビアではロベルト・スアレス(Roberto Suárez)という人物が「ボリビアのコカイン王」として知られていました(*9)。1980年時ガルシア・メサ(García Meza)政権下のボリビア経済は崩壊していました(*9)。内務大臣ルイス・アルセ・ゴメス(Luis Arce Gómez)は1980年後半アメリカ合衆国に行き、違法薬物の問題を解決しようとしていることを伝えました(*9)。帰国後、ルイス・アルセ・ゴメスはコカ葉栽培者やコカ・ペースト製造業者を逮捕していきました(*9)。一方、逮捕されなかったコカ葉栽培者やコカ・ペースト製造業者もいました(*9)。ルイス・アルセ・ゴメスに十分な金を支払っていなかった者達が逮捕されていたのでした(*9)。逮捕は恣意的に行われていたのでした。
多くの小規模なコカ葉栽培者が逮捕されたことにより、結果コカ・ペーストの生産量が落ちました(*9)。ボリビアにおけるコカ・ペースト生産量の減少は、コロンビア麻薬組織にとってコカ・ペーストの仕入れ量の減少を意味しました。コロンビア麻薬組織は仕入れ量の回復を強く要求しました(*9)。先述のロベルト・スアレスがルイス・アルセ・ゴメスに会い、コカ葉栽培者やコカ・ペースト製造業者の取り締まりを止めること、コカインビジネスの取引を黙認するように、伝えました(*9)。ルイス・アルセ・ゴメスはロベルト・スアレスに対し、一時金として5,000万ドルの支払いを要求しました(*9)。ロベルト・スアレスが内務大臣と掛け合いをしていたことからも、ボリビアのコカイン業界の顔役であったことが窺い知れます。
1984年コロンビア麻薬組織は、コカ・ペースト仕入れ代金25%の引き下げを一方的に決定しました(*9)。ロベルト・スアレスはこの決定に反対しました(*9)。しかし結局、ロベルト・スアレスの甥であるホルヘ・ロカ・スアレス(Jorge Roca Suárez)がロベルト・スアレスのポジションを取って代わることになりました(*9)。
ボリビア政府は1983年及び1988年に、「ユンガス地帯を除く地域」でのコカ葉栽培を非合法化しました(*1)。チャパレ地区でのコカ葉栽培は非合法とされたのです。しかしチャパレ地区でのコカ葉「違法栽培」は以降も続けられていきました(*1)。
風向きが変わったのが1997年でした。同年に誕生した第2次ウーゴ・バンセル政権は、チャパレ地区におけるコカ葉違法栽培の取締りを徹底化しました(*1)。2001年2月チャパレ地区で最後のコカ葉畑が壊滅され、チャパレ地区のコカ葉栽培エリアは消滅しました(*10)。
また裏社会の中でも大きな変化がありました。1990年代前半ボリビアのコカ葉ビジネスは衰退していきました(*11)。衰退の背景にはコロンビアでコカ葉栽培が始まったことがありました(*11)。コロンビア麻薬組織にとって、ボリビアからコカ葉もしくはコカ・ペーストを仕入れるより、自国栽培のものを使用した方が安く済むようになりました(*11)。結果、ボリビア産コカ葉及びコカ・ペーストの価格は大幅に下落しました(*11)。
2013年時点でボリビア政府は、ユンガス地帯におけるコカ葉栽培を合法化(法律1008号)していました(*12)。コカ葉栽培についてはボリビア側には「昔からの目的でコカ葉を使用しているだけ」という主張があります(*3)。政界側もコカ葉栽培の維持に努めています。2005年ボリビア大統領に当選したエボ・モラレスが、コカ葉栽培維持者の筆頭格でした (*1)。エボ・モラレスは元々、チャパレ地区におけるコカ葉栽培組織のリーダーでした(*1)。
ボリビアの物流インフラは脆弱でした。内陸国である為、当然輸出拠点としての港湾が自国に現在(2022年)も存在しません。2013年時点でボリビアには航行可能な河川が少なく、道路は充分に整備されていませんでした(*13)。
また首都ラパスと地方中核都市を陸路で往来する際は、アンデス山脈の横断が必要で、道路は急カーブが多く、大型自動車にとって通行時は危険が伴いました(*13)。ボリビアから他国に向かう経路は、海路及び陸路ともに、大きく制限を課されているのです。密輸面では空路が用いられたことがあります。ボリビアからコロンビアにコカ・ペーストを密輸した際、小型飛行機の利用事例が過去にありました (*1) 。
<引用・参考文献>
*1 『エリア・スタディーズ54 ボリビアを知るための73章 【第2版】』「コカ経済の盛衰 伝統作物から麻薬原料のコカ栽培へ」(国本伊代・岡田勇、2013年、明石書店),p186-190
*2 『コロンビア内戦 ― ゲリラと麻薬と殺戮と』(伊高浩昭、2003年、論創社), p110
*3 『エリア・スタディーズ54 ボリビアを知るための73章 【第2版】』「コカとアンデス高地農民の生活」(国本伊代、2013年、明石書店),p191-192
*4 『エリア・スタディーズ54 ボリビアを知るための73章 【第2版】』「ユンガス地帯 コロイコ、チュルマニを中心に」(眞鍋周三、2013年、明石書店),p38-44
*5 『コカイン ゼロゼロゼロ 世界を支配する凶悪な欲望』(ロベルト・サヴィアーノ著、関口英子/中島知子訳、2015年、河出書房新社),p105
*6 『コロンビア内戦 ― ゲリラと麻薬と殺戮と』, p112-113
*7 『コロンビア内戦 ― ゲリラと麻薬と殺戮と』, p106-107
*8 『Cocaine: An Unauthorized Biography』(Dominic Streatfeild,2003,Picador),p390
*9 『Cocaine: An Unauthorized Biography』,p387-389
*10 『コロンビア内戦 ― ゲリラと麻薬と殺戮と』, p299
*11 『Cocaine: An Unauthorized Biography』,p399
*12 『エリア・スタディーズ54 ボリビアを知るための73章 【第2版】』「内陸国の国際関係 「海への出口」問題、麻薬対策、地域統合」(遅野井茂雄、2013年、明石書店),p142-145
*13 『エリア・スタディーズ54 ボリビアを知るための73章 【第2版】』「経済開発の諸条件 多様で広大な国土の開発と障害」(国本伊代、2013年、明石書店),p166-169
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