アメリカ合衆国東部ニュージャージー州では地元のアウトロー組織として「デカヴァルカンテ・ファミリー」(DeCavalcante Family)が活動してきました(*1)。
1964年シモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテ(Simone Rizzo DeCavalcante)が「デカヴァルカンテ・ファミリーの前身」のトップから組織を奪い取る形で、デカヴァルカンテ・ファミリーを立ち上げました(*2)。
シモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテは、ケニルワース(ニュージャージー州)で暖房及び空調の会社も経営していました(*2)。この暖房及び空調の会社がシンクや管を販売していたことから、シモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテは別名「配管工のサム」(Sam the Plumber)と呼ばれていました(*2)。加えてシモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテにはもう1つ「カウント」(the Count)という別名もありました(*2)。
シモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテは「コミッション」(Commission)の参加権を獲得した人物であり、警察組織からも一目置かれていました(*2)。「コミッション」とは、アメリカ・マフィアの「全米最高統治評議会」のことであり、ニューヨーク市以外のエリアからは「数人の有力者」のみしか参加できませんでした(*3)。アメリカ・マフィアとは「アメリカ合衆国を拠点に活動するシチリア系アウトロー組織」のことです(*4)。アメリカ・マフィアの別名は「コーザ・ノストラ」です(*4)。
シモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテが、アメリカ・マフィアの「全米最高統治評議会」(コミッション)に参加していたことから、デカヴァルカンテ・ファミリーは「アメリカ・マフィア」系の組織であったと考えられます。
1960年代後半から連邦捜査局(FBI:Federal Bureau of Investigation)はシモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテを盗聴するなど、監視していました(*2)。1971年シモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテは起訴されました(*2)。シモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテは賭博で収益を上げていたことを認めました(*2)。またデカヴァルカンテ・ファミリーは他団体と組み、ニューヨーク市(ニューヨーク州)にあるポルノショップの90%を影響下に置いていたことも明らかになりました(*2)。
裁判の結果、シモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテには5年の懲役刑が下されました(*2)。シモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテは服役を終えると、引退し、フロリダ州のマイアミビーチに移りました(*2)。シモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテは次期トップにジョン・リッギ(John Riggi)を選びました(*2)。
ジョン・リッギも1989年に起訴され、翌1990年に有罪の懲役刑を言い渡されました(*2)。収監後もジョン・リッギがデカヴァルカンテ・ファミリーのトップを務めていきました(*2)。収監中のジョン・リッギは組織の運営をジェイク・アマリ(Jake Amari)に任せていました(*2)。ジェイク・アマリは70歳代で、AMI建設という会社(ニュージャージー州エリザベス)を経営していました(*2)。ジェイク・アマリは胃ガンを患っていました(*2)。
「デカヴァルカンテ・ファミリーの創設者」であるシモーネ・リッツォ・デカヴァルカンテは1990年代後半に84歳で死去しました(*2)。
<引用・参考文献>
*1 『Made Men: The True Rise-and-Fall Story of a New Jersey Mob Family (Berkley True Crime)』(Greg B. Smith,2003, Berkley), p13
*2 『Made Men: The True Rise-and-Fall Story of a New Jersey Mob Family (Berkley True Crime)』, p16-19
*3 『Motor City Mafia: A Century of Organized Crime in Detroit (Images of America)』(Scott M. Burnstein,2006, Arcadia Publishing), p43
*4 『シチリア・マフィアの世界』(藤澤房俊、2020年、講談社学術文庫), p25-26
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