稲葉地一家トップ職の名称

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 現在(2024年)稲葉地一家のトップは松山猛で、代目は「十代目」になります(*1)。現在松山猛は上部団体の弘道会では「舎弟頭」を務めています(*1)。

 『BAMBOO MOOK 二代目弘道会総覧』において2009年11月時点で松山猛は「十代目稲葉地一家総長」と記載されていました(*2)。また2009年11月時点の弘道会において松山猛は「若頭補佐・運営総括委員長」を担っていました(*2)。

 松山猛は2017年服役生活を終え、出所しました(*3)。『週刊実話』2017年5月11・18日号の記事においても、松山猛は「十代目稲葉地一家総長」と記載されていました(*3)。また2017年5月時点の弘道会においても松山猛は「若頭補佐」を務めていました(*3)。松山猛が「弘道会若頭補佐」を長年続けてきたことが窺いしれます(2009年11月~2017年の間に降格し、再度昇格していたという可能性もありますが)。

 稲葉地一家は元々博徒組織で、幕末に結成されました(*4)。稲葉地一家の創設者は富田善七(通称:日比津の善七)でした(*4) 。富田善七が率いていた時代、その博徒組織は「稲葉地一家」と名乗っていませんでした(*4)。富田善七の博徒組織(稲葉地一家の源流組織)は、愛知郡中村大字日比津(現在の名古屋市中村区)を本拠地とし、現在の名古屋市内各所に縄張りを持っていました(*5)。幕末から明治初期において、源流組織の活動範囲は、名古屋西部地方でした(*4)。

 富田善七は1882年(明治十五年)病死しました(*5) (*6)。筆頭子分の村上甚之助が、親分(富田善七)の博徒組織を引き継ぎました(*4) (*6)。村上甚之助の時代、その博徒組織は「稲葉地一家」と名乗るようになったといわれています(*4)。村上甚之助は「愛知郡中村大字稲葉地」の出身で、その地名を組織名に採用したと考えられています(*4)。

 稲葉地一家は村上甚之助を「初代」としてきました(*6)。村上甚之助は1890年(明治二十三年)死去しました(*4)。1882~1890年の間に、源流組織は「稲葉地一家」と名乗るようになったと考えられます。

 村上甚之助の死去(1890年)後、今津藤三郎が稲葉地一家を引き継ぎ、「稲葉地一家二代目」となりました(*4) (*6)。

 1916年(大正五年)二代目今津藤三郎は引退しました(*5)。以降、今枝政五郎が稲葉地一家を引き継ぎ、「稲葉地一家三代目」となりました (*5)。今津藤三郎は1930年(昭和五年)に病死しました(*6)。

 三代目今枝政五郎体制(1916年以降)の稲葉地一家において、縄張りは、今枝政五郎と富田鍋次郎(富田善七の実子)の「共同の預かり」となりました(*5)。旧郡一帯は「今枝政五郎の預かり(支配下)」、旧市部一帯は「富田鍋次郎の預かり(支配下)」となり(*5)、縄張りが二分された格好です。当時の稲葉地一家は、今枝政五郎と富田鍋次郎が「共同統治」していたという見方もできます。

 その後の稲葉地一家では5つの派(今津派、問屋町派、水野派、桜木派、伊藤派)が形成されていきました(*5)。今枝政五郎は今津派で、富田鍋次郎は問屋町派でした(*5)。富田鍋次郎は1931年病死しました(*6)。一方、今枝政五郎は1956年病死しました(*6)。

 太平洋戦争終了(1945年)後、稲葉地一家は三重県北部でも活動していました(*7)。

 「稲葉地一家四代目」は上條義夫がなりました(*5)。1964年12月、1次団体7組織による「七人兄弟盃」が交わされました(*8)。7組織間の同盟が結ばれたのでした。7組織の1つが稲葉地一家で、当時の稲葉地一家トップは上條義夫でした(*8)。他には本多会、松葉会、中島会、直嶋義友会、藤原会、中泉一家でした(*8)。直嶋義友会は大阪府を拠点にする老舗組織でした(*9)。中泉一家は静岡県で活動していました(*10)。

 その後、四代目上篠義夫の引退により、1970年中村真人が「稲葉地一家五代目」となりました(*5)。『撃攘 「東海のドン」平井一家八代目・河澄政照の激烈生涯』において、中村真人は「稲葉地一家五代目総裁」と記載されています(*11)。

 ちなみに中村真人の実弟である中村照治は、稲葉地一家の2次団体「三之助」のトップでした(*11)。中村照治は「三之助六代目」でした(*11)。三之助は「水野派」でした(*11)。

 その後、伊藤信男が「稲葉地一家六代目」となり、同時に「総裁」という名称が伊藤信男にはついていました(*4)。伊藤信男は高村会(問屋町派)の出身でした(*4)。1984年5月時点で伊藤信男は稲葉地一家六代目総裁の地位にいました(*12)。

 東海地方では稲葉地一家の他に、瀬戸一家、平野家一家が老舗博徒組織として有名でした(*4)。瀬戸一家は愛知県、岐阜県に縄張りを持っていました(*13)。

 瀬戸一家は岐阜県中津川市周辺の縄張りを1960年まで「中京熊屋恵那分家」に貸していました(*13)。瀬戸一家は「貸しジマ」を持っていたのです。さらに中京熊屋恵那分家は中津川市周辺の縄張りを「林組」(信州斉藤一家の下部団体)に貸していました(*13)。中津川市周辺の縄張りは「又貸し」されていたのです。

  瀬戸一家から縄張りを借りていた「中京熊屋恵那分家」ですが、テキヤ組織の可能性があったと考えられます。東海地方のテキヤ組織の1つに「熊屋本家」がありました(*14)。また「分家」はテキヤ組織でよく用いられる言葉です。

 ちなみに北海道ではテキヤ組織が炭坑街などで賭場を開帳していました(*15)。太平洋戦争終了後の闇市時代には、テキヤ組織が街裏の旅館や闇料亭などで、賭場を開帳していました(*16)。東京でもテキヤ組織の賭場が多く開帳されていました(*16)。

 また三吉一家という博徒組織も有名でした(*14)。明治初期に山田三吉が三吉一家を結成しました(*14)。三吉一家は熱田一帯を縄張りとしました(*14)。三吉一家は1961~1962年頃、新団体「松波会」を立ち上げました(*14)。地元の愚連隊も松波会に加入しました(*14)。しかし松波会は、警察庁の取締り強化作戦(通称:「頂上作戦」)を受け、1965年に解散しました(*14)。1968年旧松波会勢力が新団体「導友会」を立ち上げました(*14)。先述のテキヤ組織・熊屋本家も導友会に加入しました(*14)。

 警察庁の「頂上作戦」は1964年から開始されました(*17)。頂上作戦と同時期に、警察組織は賭博に関与した者を「非現行」でも検挙するようになりました(*17)。

 1964年以前の警察組織は、賭博に関しては「現行犯」として検挙するしかなかったのです(*17)。非現行検挙により、違法賭博業は打撃を受けました(*17)。

 賭博のゲームは、関東では「バッタ撒き」が主流、西日本では「本引き」が主流でした(*18)。本引きには「サイ本引き」と「手本引き」の2つがありました(*19)。本引きは、名古屋近辺にまで拡がっていました(*18)。

 1984年5月時点で瀬戸一家トップは「小林金次総裁」、平野家一家トップは「佐藤安吉総裁」でした(*12)。当時、他の博徒組織もトップ職の名称に「総裁」を用いていたのでした。

 その後、鬼木賢緒が「稲葉地一家七代目」になりました(*6)。七代目の鬼木賢緒とは、おそらく稲葉地一家の2次団体「笹若一家」トップだった鬼木賢緒(*4)のことであろうと考えられます。「笹若」とは、桜木徳次郎(桜木派)の異名でした(*4)。笹若一家は「桜木派」だった可能性があります。『実話時代』2019年9月号「本誌が照射したヤクザ三十五年物語。あの日は熱かった-。俠魂は今も灯っているか。渡世の気魄 特写取材の親分秘蔵ショットを完全掲載!」内では鬼木賢緒の写真(一九八六年十二月号)が掲載されており、「稲葉地一家七代目鬼木賢緒総裁」という名称になっていました(*20)。

 その後、池田憲一が「稲葉地一家八代目」になりました(*6)。1992年中村英昭が「稲葉地一家九代目」になりました(*2)。『髙山若頭からの警告 続・弘道会の野望』では、池田憲一と中村英昭は「総長」と記載されています(*21)。

 まとめると稲葉地一家では五代目中村真人、六代目伊藤信男、七代目鬼木賢緒の3人には「総裁」という名称がついていました。一方、八代目池田憲一、九代目中村英昭、十代目松山猛の3人には「総長」という名称がついていました。

 稲葉地一家は1992年(九代目中村英昭体制時)、弘道会の傘下に入りました(*2)。稲葉地一家は1次団体ではなくなり、山口組3次団体となったのです。

 その際弘道会側が、トップ職の名称を総長に変更するよう、稲葉地一家に提案したのかもしれません。1次団体であればトップ職の名称が「総裁」でも問題はないのでしょうが、3次団体トップ職の名称が「総裁」ということには違和感を持つ人は弘道会の中で少なからずいたのかもしれません。

 1991年時点の稲葉地一家内においてナンバー2職は「本部長」で、「若頭」という職はありませんでした(*2)。2022年10月時点では、稲葉地一家において林雅志が若頭を務めていました(*22)。おそらく弘道会入り(1992年)の前後に、稲葉地一家内で「若頭」という職が設けられたと考えられます。ナンバー2職の名称が変更されたように、トップ職の名称も変更されたのかもしれません。

 弘道会入りの際にトップ職の名称変更という説に基づけば、八代目池田憲一は「総長」ではなく実は「総裁」と呼ばれていたのかもしれません。

 先述の老舗博徒組織の平野家一家も1991年以降、弘道会の傘下に入りました(*21)。2009年11月時点、中島護が平野家一家のトップで、「八代目平野家一家総長」と呼ばれていました(*2)。平野家一家も弘道会入りする際、トップ職の名称を総長に変更するよう、弘道会側から提案されたのかもしれません。ちなみに先述の導友会も1991年以降、弘道会の傘下に入りました(*21)。

 近年の弘道会において下部団体がトップ職等の名称に「総裁」を用いることは、あまり聞きません。弘道会有力2次団体の福島連合においても「総裁」は用いられず、「総長」が用いられています。

 弘道会2次団体「福島連合」では2023年トップが交代しました(*23)。佐藤正和若頭が新会長(トップ職)に就任、会長の福島康正は総長に就きました(*23)。福島連合は北海道札幌市を本拠地としました(*23)。福島連合はテキヤ組織を前身とし(*24)、1987年弘道会の傘下に入りました(*2)。1987年の弘道会移籍時、トップの福島康正には「弘道会幹部」の地位が与えられました(*2)。「準幹部」の地位が与えられたという説もあります(*24)。

 1992年福島康正は弘道会の「若頭補佐」に就きました(*2)。福島連合は弘道会内の有力組織の1つで、仙台や東京でも活動しているといわれてきました(*24)。弘道会の中でも、福島連合は早めに東京に進出したといわれていました(*25)。また福島連合には違法薬物ビジネスに関与していた疑いがありました(*25)。

<引用・参考文献>

*1 『週刊実話』2024年10月3日号, p32-33

*2 『BAMBOO MOOK 二代目弘道会総覧』(ジェイズ・恵文社編、2010年、竹書房)

*3 『週刊実話』2017年5月11・18日号, p236

*4 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社).p114-115

*5 『撃攘 「東海のドン」平井一家八代目・河澄政照の激烈生涯』(山平重樹、2021年、徳間文庫), p152-153

*6 『実話時代』2017年1月号「尾張游俠外伝 稲葉地一家鼻祖/日比津善七物語」(大谷浩二),p104-105

*7 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫),p122

*8 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』,p86-89

*9 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス),p55

*10 『血と抗争 山口組三代目』,p167

*11 『撃攘 「東海のドン」平井一家八代目・河澄政照の激烈生涯』, p37

*12 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社),p132-136

*13 『日本のヤクザ100の喧嘩 闇の漢たちの戦争』(別冊宝島編集部編、2017年、宝島社),p178-179

*14『実話時代』2015年9月号「「義理回状」が語る戦後ヤクザ史 昭和六十年五月吉日 二代目導友会襲名披露」, p103

*15『実話時代』2017年9月号「ヤクザと親睦団体「今昔物語」」,p20

16『ヤクザの世界』(青山光二、2005年、ちくま文庫),p171

*17『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫),p108-111

*18『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑦ 現代ヤクザマルチ大解剖』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2004年、メディアボーイ),p131

*19 『ヤクザの世界』,p145

*20 『実話時代』2019年9月号「本誌が照射したヤクザ三十五年物語。あの日は熱かった-。俠魂は今も灯っているか。渡世の気魄 特写取材の親分秘蔵ショットを完全掲載!」,p10

*21 『髙山若頭からの警告 続・弘道会の野望』(木村勝美、2020年、かや書房),p153

*22 『週刊実話』2022年11月3日号, p35

*23 『週刊実話』2024年1月4日号, p35

*24 『週刊ポスト』2023年2月24日号「ルフィ強盗団を生んだ山口組の“極北極悪”グループ」(鈴木智彦), p116-117

*25 『週刊文春』2015年10月1日号「山口組と芸能界」, p25

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コメント

コメント一覧 (2件)

    • コメント、情報提供ありがとうございます!!

      僕は宅建太郎さんの動画から、YAKUZA WIKIで「総裁」になっていると聞いて
      「どっちなんだ」と思って、今回調べてみた感じです。

      鈴木智彦さんの記事では「総裁」にもなっていますね~
      いったいどっちなんでしょうかね。

      ただ個人的には
      「総長」のままではないかなと思ってます

      というのも弘道会は「名称」使用には厳しい印象があるからです
      好き勝手には名乗らせない印象があるので

      なのでもし

      「総裁」になっていたとしたら
      以下の2点が考えられますでしょうか
      憶測ですが

      1つは、弘道会執行部側が名称に関しては、自由化の方針を出して、稲葉地一家が先鞭をつけて、「トップ職の名称」変更に踏み切った

      もう1つは稲葉地一家の内部昇格(山口組2次団体に昇格)です。その布石として、名称変更をしたのではないかと…

      いったい、どっちなんでしょうかね。
      気になります。

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