稲川会2次団体「田中一家」は元々博徒組織で、群馬県伊勢崎市を本拠地としてきました(*1)。田中一家の前身は「上州田中一家」でした(*2)。近くには同じ稲川会の「八木田一家」(埼玉県深谷市)と「江戸屋一家」(群馬県館林市)が活動していました(*2)。3団体の関係は昔から親密でした(*2)。
現在田中一家のトップは鈴木郁夫(七代目総長)です(*3)。鈴木郁夫は2007年、田中一家のトップ(七代目総長)に就くと同時に、1次団体・稲川会の角田吉男会長の直参(角田吉男の子分)になりました(*1)。
2012年鈴木郁夫は、1次団体・稲川会の執行部入りを果たしました(*1)。
その後、鈴木郁夫は「懲罰委員長」等を務め(*4)、2019年稲川会六代目体制(内堀和也会長)の発足時には(*5)、「組織委員長」に就任しました(*4)。
ちなみに2019年4月7日、横浜市の稲川会館にて、稲川会において「六代目継承盃」が執り行われました(*5)。六代目継承盃の儀式後、「親子縁組盃」が執り行われました(*5)。この親子縁組盃は、新会長の内堀和也を「親」、2次団体トップなどの54人を「子」とするものでした(*5)。「舎弟盃」は執り行われませんでした(*5)。清田次郎五代目会長の就任時(2010年)でも、「親子盃」だけ交わされていました(*5)。2010年以降の1次団体・稲川会では「舎弟」がいなかったことが分かります。
田中一家の話に戻ります。2019年の稲川会六代目体制発足時、鈴木郁夫は「北関東ブロック統括長」も務めていました(*4)。
2021年4月時点、鈴木郁夫は「副本部長」に就いていました(*6)。また2021年4月時点、鈴木郁夫は引き続き、北関東ブロック統括長も兼任していました(*6)。副本部長は稲川会では「序列四位」の位置付けでした(*7)。稲川会の序列一位の役職は「会長」、二位が「理事長」、三位が「総本部本部長」でした(*6)。
2020年1月24日群馬県桐生市で山口組4次団体「栗山組」の組員が射殺されました(*7) (*8)。栗山組の上部団体は野内組で、その野内組の上部団体は弘道会でした(*8)。野内組トップの野内正博は2019年、弘道会の若頭に就きました(*9)。
栗山組は元々「山健組」の傘下組織で、2019年野内組に移籍しました(*10)。栗山組は群馬県太田市を拠点に活動していました(*11)。2019年7月、地元の半グレ集団が太田市の栗山組本部前で騒ぎを起こしていました(*11)。また同年(2019年)10月、その栗山組本部に火炎瓶が投げ込まれました(*11)。さらに2021年3月4日未明、群馬県伊勢崎市の県道で乱闘が起き、片方の当事者として栗山組トップの栗山良成がいました(*11)。栗山良成は乱闘で銃撃され、負傷しました(*11)。栗山組が他組織と揉めていたことが窺えます。
2020年1月24日群馬県桐生市で起きた射殺事件の話に戻します。事件発生時から、田中一家と栗山組の間でのトラブルがあったという噂が流れました(*7)。2022年8月19日群馬県警は田中一家の幹部ら4人を殺人などの容疑で、逮捕しました(*7) (*8)。同年9月9日、4人全員が起訴されました(*8)。
同年(2022年)9月6日、稲川会理事長の貞方留義と副本部長の鈴木郁夫が、岐阜県内で野内組トップの野内正博と会談をしました(*8)。また稲川会会長の内堀和也も同年9月8日、名古屋に行きました(*8)。これらの会談により、山口組と稲川会の間で和解が成立しました(*8)。
起訴された田中一家幹部ら4人は絶縁処分となり、鈴木郁夫は副本部長から退任しました(*8)。
1カ月後の2022年10月時点で、鈴木郁夫は常任相談役を務めていました(*3)。また2022年10月時点で、八木田一家トップの工藤巧が北関東ブロック統括長を務めていました(*3)。2022年9月の和解成立後、鈴木郁夫は副本部長退任とともに、北関東ブロック統括長も退任した可能性があります。
2000年時、現在の田中一家は「上州田中一家」と名乗っていました(*12)。当時(2000年)の上州田中一家トップ(総長)は大澤孝次でした(*12)。当時、群馬県内の前橋市では稲川会の2次団体「大前田一家」が活動していました(*12)。大前田一家(稲川会)のトップ(七代目総長)は小田建夫でした(*12)。小田建夫は上州田中一家の出身で、長らく上州田中一家で総長代行を務めていました(*12)。
ちなみに当時(2000年)群馬県内では住吉会3次団体「住吉一家大前田」という組織も活動していました(*12)。住吉一家大前田は伊勢崎市を拠点にしていました(*12)。
2001年8月18日(*13)、四ツ木斎場(東京都葛飾区)にて、大前田一家(稲川会)構成員の2人が住吉会3次団体「住吉一家向後睦会」(*14)トップの熊川邦男に向けて、発砲しました(*13)。熊川邦男は被弾し、また近くにいた住吉会3次団体「住吉一家滝野川七代目」(*14)トップの遠藤浩司と向後睦会系組織の幹部も被弾しました(*13)。結果、熊川邦男と遠藤浩司は死亡、向後睦会系組織の幹部は重傷を負いました(*13)。発砲した大前田一家(稲川会)の2人はその場で取り押さえられ、後に警察に引き渡されました(*13)。
住吉会では福田晴瞭会長時代(在任期間:1998~2014年)、2次団体の大半は「住吉一家」の傘下に入っていました(*15)。「住吉一家大前田」「住吉一家向後睦会」「住吉一家滝野川七代目」の名前が示すように、従来の組織名の前に「住吉一家」の名前が入っていたのです。また住吉一家が「2次団体」となった為、従来の2次団体は名目上「3次団体」となっていました(*15)。
四ツ木斎場事件の話に戻します。その後、警察の仲介により稲川会と住吉会の間で会談が設けられ、和解が成立しました(*16)。会談には稲川会からは理事長・角田吉男、組織委員長・杉浦昌宏、住吉会からは会長・福田晴瞭、本部長・五十嵐孝が出席しました(*16)。2002年10月時点で理事長・角田吉男は「京浜七熊一家」総長、杉浦昌宏は1次団体では理事長補佐であり、「杉浦一家」総長を務めていました(*17)。
結果、大前田一家(稲川会)トップの小田建夫は絶縁処分となり、また稲川会において大前田一家は消滅することになりました(*16)。また稲川会総本部本部長・岸本卓也(岸本一家)が除籍処分となりました(*14)。岸本卓也は自ら引退を申し出て(*14)、その際に断指しました(*18)。稲川会における「総本部本部長」は、会長、理事長に次ぐ職位であり、いわば「組織内ナンバー3」です。
当時の稲川会は、稲川裕紘三代目会長体制(在任期間:1990~2005年)下でした(*19)。稲川裕紘の本名は稲川土肥でした(*19)。また稲川会初代会長・稲川聖城の実子でした(*19)。
大前田一家(稲川会)は栃木県の宇都宮市に縄張りを持っていました(*20)。大前田一家(稲川会)の消滅以降、住吉会3次団体「住吉一家親和会」の勢力が宇都宮駅東口側に進出、勢力圏を築いていきました(*20)。親和会は親睦団体でした(*21)。宇都宮駅東口側において勢力圏を築いていったのは、住吉会4次団体「住吉一家親和会栃木」「住吉一家親和会羽黒」「住吉一家勘助」「住吉一家親和会矢畑」の4組織でした(*20)。
稲川会の稲川裕紘会長は2005年5月、病気により死去しました(*19)。稲川会は1年間喪に服すことにし、トップ(会長職)を空席としました(*22)。この前後に、先述の元総本部本部長の岸本卓也は稲川会に復帰しました(*23)。岸本卓也は「会長補佐」の役職に就きました(*23)。
岸本卓也の組織は元々浅草で活動していましが、後に館山市(千葉県南部)に進出しました(*18)。岸本一家の前身は「岸本組」でした(*24) (*25)。岸本組時代、組織の正式名称は「稲川会稲川一家岸本組」でした(*24) (*25)。「稲川一家」は先述の稲川裕紘により1980年結成されました(*26)。当時、稲川裕紘は稲川会内にて「山崎屋一家」を率いており、加えて横浜市の「山田一家」の縄張りを引き継ぐことになった為、新団体として稲川一家を興したのでした(*26)。
岸本組はこの「稲川一家の2次団体」だったのです。1981年頃、岸本卓也は北海道北見市の星川濠希と「兄舎弟盃」を交わしました(*24) (*25)。岸本組は北見市に進出したのです。当時。星川濠希は地元テキヤ組織から破門されていました(*24)。
岸本卓也は2005年前後、稲川会に復帰するものの、結局再び引退をしました(*18)。稲川裕紘会長は死去(2005年5月)の直前、人事異動を行っていました(*23)。その人事異動により、浅井信吾(「一ノ瀬一家」総長)が理事長、実子の稲川英希が本部長になりました(*23)。稲川英希は2002年10月、稲川会では「会長付」の役を務めていました(*17)。
浅井信吾は元々杉浦一家で総長代行を務めていました(*27)。1992年浅井信吾は杉浦一家から一ノ瀬一家に移籍し、六代目総長に就任しました(*27)。一ノ瀬一家は横浜市を拠点に活動しており、元々は独立組織でした(*27)。五代目の滝沢良次郎総長の時代、一ノ瀬一家は稲川会に加入していました(*27)。喪に服していた期間(2005年5月~2006年7月)(*19) (*22)、浅井信吾は理事長を務めました(*27)。この間、前理事長の角田吉男は特別顧問に就いていました(*27)。
この間、次期トップを巡る争いが「角田吉男特別顧問派」と「稲川英希本部長派」の間で繰り広げられていました(*22)。2006年7月「角田吉男特別顧問派」が横浜市の施設で角田吉男の「四代目継承式」を実施、一方同日に「稲川英希本部長派」は熱海市の稲川会本部にて稲川英希の「五代目継承式」を実施しました(*22)。稲川会は、二分する事態に陥ってしまったのです。稲川聖城総裁(稲川会初代会長)は「四代目継承式」に出席しました(*22)。継承式の翌日、角田吉男と稲川英希の間で会談が実施、結果稲川英希が身を引くことになり、事態は収束されました(*22)。
2006年7月角田吉男が稲川会四代目会長に就任すると(*22)、浅井信吾は理事長を退任(*27)、清田次郎(山川一家総長)が理事長に就任しました(*28)。
<引用・参考文献>
*1 『実話時代』2014年8月号, p35
*2 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析 Special Edition』(2017年6月号増刊), p61
*3 『週刊実話』2022年11月3日号, p37
*4 『実話時代』2019年6月号, p21
*5 『実話時代』2019年6月号, p12-17
*6 『週刊実話』2021年4月29日号, p39
*7 『週刊実話』2022年9月8日号, p37
*8 『週刊実話』2022年9月29日号, p45
*9 『週刊実話』2019年11月28日号, p32
*10 『髙山若頭からの警告 続・弘道会の野望』(木村勝美、2020年、かや書房),p311
*11 『週刊実話』2021年3月25日号, p32-34
*12 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫),p278-279
*13 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂),p289-290
*14 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社),p90-92
*15 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』,p87
*16 『マル暴 警視庁暴力団担当刑事』(櫻井裕一、2021年、小学館新書),p93
*17 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』,p61
*18 『山口組 分裂抗争の全内幕』「第9章 住吉会・稲川会に走った激震」(夏原武、2016年、宝島SUGOI文庫),p309-310
*19 『裏社会 闇の首領たち』(礒野正勝、2012年、文庫ぎんが堂),p132-135
*20 『山口組 分裂抗争の全内幕』「第9章 住吉会・稲川会に走った激震」,p295
*21 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』, p96
*22 『裏社会 闇の首領たち』,p137-138
*23 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫),p122-123
*24 『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』(山平重樹、2014年、幻冬舎アウトロー文庫),p193-194
*25 『極私的ヤクザ伝 昭和を駆け抜けた親分41人の肖像』(山平重樹、2023年、徳間書店),p145
*26 『実話時代』2019年5月号, p17
*27『実話時代』2019年1月号, p14
*28 『裏社会 闇の首領たち』,p140
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