山口組は1957~1966年頃まで「神戸芸能社」という興行会社を運営していました(*1) (*2)。神戸芸能社が「株式会社」として登記されたのは翌1958年4月1日でした(*1)。山口組の三代目組長・田岡一雄が神戸芸能社の社長に就きました(*1)。
1955~1964年の日本において芸能会社及び興行会社は約2,000社を数えたといわれています(*3)。2,000社の約7割は「ヤクザ組織関連の会社」と見られていました(*3)。ヤクザ組織関連の芸能会社及び興行会社の中には、事業活動をしていなかった会社も多くありました(*3)。約300社が事業活動を伴っていたと見られています(*3)。
神戸芸能社は事業活動を伴っていた会社で、美空ひばり、田端義夫、高田浩吉の興行権を独占していました(*3)。
神戸芸能社の前身は「山口組興行部」でした(*1)。山口組の二代目組長・山口登(在任期間:1925~1942年)体制時、山口組興行部は立ち上げられました(*4)。山口組の初代組長・山口春吉(在任期間:1915~1925年)の時代から、山口組は浪曲や相撲の興行を手掛けていました(*5)。
二代目組長の山口登は、大物興行師の永田貞雄と「義兄弟の盃」を交わしていました(*6)。また山口登は浪曲興行師の浪花家金蔵とも親交を持っており(*6)、興行界にネットワークを有していたと考えられます。
しかし1940年8月2日東京で山口登は襲撃され、重傷を負いました(*6)。襲撃犯は「籠寅組興行部」の構成員達でした(*6)。籠寅組は山口県下関市を拠点にしたヤクザ組織で、山口組同様に興行部を設けていました(*6)。保良菊之助が籠寅組興行部を率いていました(*6)。保良菊之助は、籠寅組初代組長・保良浅之助の次男でした(*6)。
山口登襲撃事件(1940年8月2日)の背景には、当時浪曲界のスターであった広沢虎造の映画出演トラブルがありました。
以前に籠寅組側が広沢虎造に映画出演を依頼したところ、その場で広沢虎造は出演を引き受けてしまいました(*6)。籠寅組興行部は「広沢虎造が映画出演する」という連絡を映画会社の日活にしました(*6)。
しかし吉本興業が「広沢虎造の興行・映画出演」の権利を独占的に有していました(*6)。先述の浪曲興行師・浪花家金蔵が広沢虎造のマネージメントをしており、吉本興業の吉本せいと独占契約を結んでいたのでした(*6)。吉本興業は映画会社の東宝と手を組んでいました(*6)。吉本興業にとって、広沢虎造が吉本興業の許可を得ずに日活映画に出ることは、許されないことだったのです。
当時の山口組は「吉本興業の用心棒」を担っていました(*6)。吉本せいは、トラブルの解決を山口登に依頼しました(*6)。山口登はトラブル解決の為、上京し、そこで襲撃されたのでした(*6)。
1942年10月4日山口登は脳出血で死去しました(*7)。山口登死去以後、戦争の影響もあり、山口組興行部は活動休止状態となりました(*7)。
太平洋戦争終了後の1946年4月山口組興行部は浪曲花興行を打ち、復活を果たしました(*8)。花興行とは、「興行会社設立」「追善」「親分引退」等の出来事を記念する為の催事を指しました(*9)。花興行では入場料収入に加えて、「ご祝儀」という別収入が発生しました(*9)。花興行の集客活動として、開催側のヤクザ組織は状を関係先に送りました(*9)。「状の受け手」は興行に行くのと同時に、ご祝儀を開催側に出さねばなりませんでした(*9)。花興行を打つことは、ヤクザ組織による徴収方法の1つともいえました。
1951年山口組興行部は山沖一雄を引き入れました(*10)。山沖一雄は新開地の湊座の元支配人で、レコード業界にも人脈を有していました(*10)。神戸芸能社(活動期間:1957~1966年頃)において山沖一雄は監査役という役職であったものの、神戸芸能社の事業活動を実質仕切っていました(*1)。
興行には「芸能事務所」(芸能人の所属組織)も不可欠でした(*11)。芸能事務所が興行に芸能人を送り出していました(*11)。当時の興行会社は芸能人自体を管理していた訳ではなかったと考えられます。
神戸芸能社は地方興行において「地元興行会社に委託する」または「地元興行会社と共催する」という方法をとっていました(*11)。先述したように、神戸芸能社では山沖一雄という興行界に詳しい人物が仕切っていました。一方ヤクザ組織関連の興行会社の多くは、縄張り内で花興行ばかりを打っていました(*11)。「ヤクザ組織関連の興行会社」の中で神戸芸能社は「異色」だったのです。
1955~1965年における全国の主要興行会社を見ていきましょう。北海道は「本間興業」の独壇場でした(*12)。本間誠一が本間興業を率いていました(*12)。本間興業は旭川を拠点とし、函館、小樽、札幌などに小屋を所有していました(*12)。本間興業は「ヤクザ組織関連の興行会社」ではなかったです(*12)。
東北では「自由芸能社」が影響力を持っていました(*12)。自由芸能社は東北6県の興行を仕切っていました(*13)。東北における歌謡ショー等の開催には、「自由芸能社を通す」必要がありました(*13)。松葉会副会長の木津政雄が自由芸能社を設立しました(*13)。自由芸能社の本拠地は東京でした(*13)。
関東は競争が激しかった為、1つの興行会社が仕切るという事態にはなりませんでした(*12)。
信越地区は「シバタ興行」の独壇場でした(*12)。シバタ興行は興行会社でありながら、サーカス団を運営していました(*12)。シバタ興行は新潟県新発田(本拠地)、山形県、福島県、群馬県などに80館以上の直営館を展開していました(*12)。
東海3県では「鵜飼興業」が有名でした(*12)。鵜飼興業は名古屋を本拠地とし、愛知県、三重県、岐阜県における興行において、ヤクザ組織との仲介役を果たしていました(*12)。鵜飼興業は「ヤクザ組織関連の興行会社」ではなかったです(*12)。
京都府、奈良県、和歌山県、北陸地方では「関西芸能」が地元ヤクザ組織との仲介役を果たしていました(*12)。
大阪府、兵庫県、四国地方、中国地方は、先述の神戸芸能社の独壇場でした(*12)。
興行には「業界ルール」がありました。同じ地域において新規興行会社は「既存会社の興行」と異なる内容の興行を打たなければなりませんでした(*9)。例えば既存会社がプロレス興行を打っていた場合、新規会社は「プロレス興行以外の興行」(歌謡コンサート等)を打たなければなりませんでした。
また既存会社が多様な興行を打っていた場合、同地域において「興行会社の新規設立」は基本的に認められませんでした(*9)。しかし既存会社の「下請け」から始める場合は、新規会社の設立が認められました(*9)。
1964年警察庁はヤクザ組織に対する取締りを強化していきました(通称:第1次頂上作戦)(*14)。以降、興行面においては「ヤクザ組織関連の興行会社」は公共施設を利用できなくなりました(*12)。興行会社は会場を確保できなければ、興行を打つことができません。神戸芸能社も経営困難に陥り(*12)、1966年頃潰れてしまいました(*2)。その後、神戸芸能社元幹部社員の池神誠が「池上プロダクション」を密かに立ち上げました(*2)。しかし1968年池神誠は逮捕されました(*2)。
<引用・参考文献>
*1 『興行界の顔役』(猪野健治、2004年、ちくま文庫),p77-78
*2 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p255
*3 『興行界の顔役』,p86
*4 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス),p16-17
*5 『山口組の100年 完全データBOOK』,p14-15
*6 『興行界の顔役』,p9-17
*7 『興行界の顔役』,p20
*8 『興行界の顔役』,p29
*9 『実話時代』2015年10月号「『追善興行』とは何か」,p114
*10 『興行界の顔役』,p65
*11 『興行界の顔役』,p88-90
*12 『興行界の顔役』,p92-95
*13 『興行界の顔役』,p87
*14 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p168
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